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私の履歴書復刻版

東京に進出、初の4サイクル ホンダ創業者 本田宗一郎(11)

2016/9/8

 私の会社の人物評として、よく“技術の本田社長、販売の藤澤専務”といわれるが、その藤澤武夫君と私との出会いは、ドリーム号の完成した昭和24年(1949年)8月であった。

コンビを組み、大きな夢を語り合ったころの本田宗一郎(左)と藤澤武夫

 当時モーターバイクが好評で、作るそばからどんどん売れる。自分がくふうしたものが人に喜ばれて役に立つということに無上の喜びを感じていた私はもうけの方をつい二の次にしていた。そしていつのまにか月産1000台もの企業に拡大してしまっていたが、そうなると売り先は小さな自転車屋とか終戦の混乱に乗じてかねもうけをたくらむヤミ屋、復員した連中といったきわめて不安定なおとくいさんである。この時分、日本全体が不安定な世相だったのだから、おとくいさんだけを不安定呼ばわりするのは少しおかしいが、とにかくきのうは店を開いていたと思って売り掛け金を回収に行くと、次の日には店は閉まっていて、本人はどこへ夜逃げしたのか、だれも知らないといったぐあい、品物は出ても代金がほとんどはいらない。

 これではこっちが破産してしまう。弱ったなと頭をかかえているところへ現在本田の常務をしている竹島弘君が藤澤君を紹介してくれた。竹島君は戦時中、中島飛行機にいて、私が東海精機で作ったピストンリングを見て、これなら使えると私に中島の仕事を手伝わせるキッカケを作った人である。

 ちょうど同じころ藤澤君もいまならインチキともいえるひどいバイト(削り機に用いる刃物)を作って中島に納入していたので、竹島君は私と藤澤君の2人を知っていた。その竹島君が終戦後通産省に勤め替えして私の仕事の担当局にいたので、私がつぎつぎと発明をし新製品を出すには出すが、かねが取れないで困っていることをよく知っていた。そこで「おかねのことなら藤澤にまかせておけばなんとかするだろう。そうすればお前の苦労は減って好きな技術の道を歩けるようになろう」というので2人を会わせてくれたわけである。

 私は東海精機時代はもちろん、それ以前から自分と同じ性格の人間とは組まないという信念を持っていた。自分と同じなら2人は必要ない。自分1人でじゅうぶんだ。目的は一つでも、そこへたどりつく方法としては人それぞれの個性、異なった持ち味をいかしていくのがいい、だから自分と同じ性格の者とでなくいろいろな性格、能力の人といっしょにやっていきたいという考えを一貫して持っている。

 藤澤という人間に初めて会ってみて私はこれはすばらしいと思った。戦時中バイトを作っていたとはいいながら機械についてはズブのしろうと同様だが、こと販売に関してはすばらしい腕の持ち主だ。つまり私の持っていないものを持っている。私は1回会っただけで提携を堅く約した。

 これに関連して、つねづね私の感じていることは、性格の違った人とお付き合いできないようでは社会人としても値打ちが少ない人間ではないかということである。世の中には親兄弟だけで会社を経営して、自分勝手なことをするような会社があるが、人材は広く求めるべきもので、親族に限っているようではその企業の伸びはとまってしまう。本田技研の次期社長は、この会社をりっぱに維持、発展させうる能力のある者なら、あえて日本人に限らず外人でもかまわないとさえ思っている。

 ドリーム号を完成し、藤澤専務を販売に迎えた私は、翌25年(1950年)3月、東京に営業所をつくり、東京進出の拠点とした。どうして東京進出を考えたかというと、私みたいな男が浜松のようないなか町にいると、どうも周囲の雑音が多すぎて困る。赤いネクタイを締めて傍若無人に自動車やオートバイをぶっとばして夜中の1時2時に帰宅するものだから、近所から文句が出る。朝早く出かけて夜おそく酒に酔って帰ったりする私は全然なんとも感じないが、うちにいる女房がネをあげてしまった。

「本田さんのとこは、このごろ赤いネクタイを締めたり、毎晩おそく酒に酔って帰って来るようだけどだいじょうぶですか」と、いかにも私がうわ気でもしているかのようにウワサする。私は人にめいわくさえかけなければ、自分は自分だという考えだから、あたりの評判など気にせず動き回った。だがいつまでもこんなところにいたのでは窒息してしまう。自分の持っている個性すら発揮できなくなり、新しいデザインの考案だってむずかしい、と気がついた。そこでもっと開放されるところに出なければと東京進出を図ったわけである。

 25年9月に東京の北区上十条に組み立て工場を作り、新しい意気に燃えて仕事に取りかかった。

 郷に入れば郷に従えで、のんびりしたいなかにいては、製品もやはりいなかっぽい、やぼなものができがちだ。しかしこんどは刺激の強い都会で思う存分の仕事ができると思うと、実にそう快な気持ちになれた。そこでさっそく月産300台のオートバイの組み立て工場をつくると申請したところ通産省に呼びつけられた。

「300台なんてとんでもない。オートバイがそんなに売れると本気で思っているのか」としかられたのである。「本田はガソリンの割り当てをふやしてもらうのが魂胆だろうが、それにしてもちょっと気違いじみていやしないか」と同業者はさんざん私をこきおろした。だが、事実はその300台が現在月産10万台以上を生産するまでになっているのである。当時10万台なんて言ったら、それこそ脳病院にでも入れられてしまったろう。

 こうした新しい環境で研究を進めた結果、それまでの2サイクルエンジンに代わって4サイクルのE型エンジンを作りあげることができ、これをドリーム号に積載した。このテストは東海道を箱根にかけて行なった。ちょうど昭和26年(1951年)7月15日のことで、ひどいあらしをついて浜松を出発した。テスト・ドライバーは前にも書いた河島喜好君だ。彼は設計から製作までいっさいを自分で手がけた愛車を駆ってのテスト行だった。

 私と藤澤専務は私の運転する自動車(外車)で静岡県の三島口から河島君のオートバイの後を追ったが、早くてとても追いつけない。そのころ天下の嶮(けん)の箱根を越せるオートバイは少なかったのにドリーム号はぐんぐん私たちの自動車を引き離し、すばらしいスピードで一気に峠の頂までつっ走った。しかもエンジンは全然過熱していない。やっと芦の湖の見える山頂で、すでに休んでいた河島君に追いついたわれわれは、そのすばらしさに感激しどしゃ降りの雨の中で涙を流して喜び合った。こと技術に関してはあの有名なものぐさの藤澤専務までが自動車から降り、おりからの台風の中でズブぬれになってしばし動こうともしなかった。

 この劇的シーンこそは本田技研発展の一段階を画する事件でもあった。それ以来フレームに銀線のはいったE型積載のドリーム号が非常に売れ出したのである。このときのテスト・ドライバー河島君はその後、34歳で本田技研の重役になった。

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 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年3月8日付]

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