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私の履歴書復刻版

バイクからオートバイづくりへ(下) ホンダ創業者 本田宗一郎(10)

2016/9/8

 こうしてできたエンジンが現在のホンダのオートバイエンジンの基礎になった。もとはといえば、それまで遊びに行くたびに乗り回していた自動車がガソリン不足で動かせなくなり、といって汽車やバスでは混んでどうにもならない。そこで自転車に目をつけたのだった。

 自転車に小型エンジンを付けたものつまりモーターバイクという私の創意はみごとに的中して最初月産2、300台だったのが、しまいには1000台ぐらいつくった。栃木とか岡山などという遠方からも自転車屋さんやヤミ屋が買いに来た。事実、米の買い出しなどには最適で、私も女房の実家にはバイクを利用してちょいちょい行った。だが一方では「あんなもの、ヤミ屋の乗るものだ」とさんざん悪口も言われた。

 もっとも、モーターバイクの製造にとりかかるについては身内や知人の間からもいろいろな批判や意見があった。「自動車はこれからどんどんふえるだろうから、自動車の修理工場をやろう」と提案する者があるかと思えば「ガソリンの不足時代にモーターバイクなんかに乗るやつがいるか」と否定する者もあった。だが私は「ガソリンがない時代だからこそ、少ないガソリンで動くモーターバイクが必要なのだ。薬屋で売っているベンジンを買ってきても動かせるではないか」と主張してエンジンの製作に踏み切ったのだった。

 はじめは10人ぐらいのメンバーで始めたが、私は弟弁二郎とか、いまの本田の重役になっている河島喜好君らと力を合わせてがんばった。河島君は浜松高工を卒業するとすぐ私どもの小さな工場に来てくれた人で、そのころは図面を書いてもらった。

 ところで、いくら少ないガソリンで済むといっても割り当てのガソリンでは間に合いっこない。戦時中からガソリン統制は非常にきびしいもので、戦後になっても割り当て以外のガソリンを使っていると物統令違反でやられた。だからガソリンにはずいぶん不自由した。なんとかいいくふうはないものかと考えた私は、戦時中飛行機の燃料に松根油を使っていたのに目をつけ松山を買って松根油を作った。これをヤミで買って来たガソリンにたらしこむ。すると松やにくさいにおいがするから、違反でやられそうになっても、「使っているのはガソリンじゃない。統制外の松根油だ」とすまして言えばそれで通るというわけである。この松根油入りのガソリンはもともとにおいつけのために混合したのだからとてもほんとうのガソリンのようにはいかない。そこで一部から悪評も立てられたが、大衆にとってつごうのいいものはやはりつごうがいいわけで、北海道、九州と各地から現金持参で買いにやって来たほどだった。

 ところがあるとき、松根油をとるために松の根元に穴を掘り、ダイナマイトでハッパをかけたところどういうはずみからか山火事を起こしてしまった。一時は一山燃えつくすのではないかというほどの火勢になり、消防署がこないうちに消し止めないことにはたいへんなことになるとあわてた。そこでみんなで必死になって消火につとめた結果ようやく消し止め、損害は自分の持ち山だけでホッとしたという一幕もあった。

 だがそうこうしているうちに、こんどはオートバイを作りたくなってきた。自転車にエンジンをつけたバイクではスピードもおそいし耐久力もない。どうしても強力なフレームを持った強い馬力のオートバイを作りたいと考えた。そこで研究所全員の知能を集めて昭和24年(1949年)に完成したのがドリーム号であった。“ドリーム”と名づけたのはスピードに“夢”を託すという意味で私がつけたのだが、この完成祝いはドブロクの乾杯だった。それからわずか十数年いまや従業員5000人以上、年間売り上げ目標1000億円の会社に成長しようとは、まさに経営のうえでも“ドリーム”の実現となった。当時は5万円の借金にも苦しんだ私だが、いまでは10億円の借金も容易にできるようになった。

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 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年3月5日付]

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