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私の履歴書復刻版

ピストンリング製造に苦闘(上) ホンダ創業者 本田宗一郎(7)

2016/9/8

 28歳のとき、私は繁盛していた修理工場を閉鎖し、新しく東海精機株式会社をつくってピストンリングの製造をはじめた。順調にいっていた修理業をやめ、どうして商売替えしたかというと、自分の使っていた工員たちがボツボツ独立して店を持つようになったものの、自動車が急にふえるでなし、結局私の商売がたきとなって競争することになる。私はそれがいやだった。それに修理屋はやはり修理屋だけのことしかない。いくら修理がうまくても東京や米国から頼みに来るわけがない。そのうえ昭和12年の支那事変以来物資の統制がきびしくなってきたので、材料が少なくてすむ事業に切り替える気になった。修理から製造への一歩前進を策したわけである。

28歳、昭和10年(1935年)ごろのアート商会浜松支店。左のクルマ『ハママツ号』の横にサングラスをかけた本田がいる。左から15人目は、弟の本田弁二郎。右端には当時としては珍しかったリフト式修理台が写っている。これも本田の発明品の一つである

 だが、はじめは重役の反対が強くてなかなか踏み切れなかった。そのうち顔面神経痛にかかり、医者だ注射だ温泉だと2か月以上も仕事から遠ざかってしまったが、その間反対者をくどきおとしてくれる人があってようやく転換に踏み切ることが決まった。するとどうだろう、ふしぎにもこれまで苦しんでいた顔面神経痛がけろりとなおってしまった。これにはわれながら驚いた。

 だが、転換してみたもののピストンリングの製造は考えていたほど簡単にはいかなかった。しかたがないので鋳物屋のおやじに聞きに行くと「途中からやろうたって、そんな簡単にできるわけがない。やっぱり年期奉公しなければ……」と剣もほろろの返事、作れるもの、売れるものと思って、すでに機械は金をかけて据えつけ、工員も50人ぐらいかかえているのだから、どうしても成功させなくてはならなかった。

 宮本専務といっしょに毎日、夜中の2時3時まで鋳物の研究に取り組んだ。髪はのび放題、妻を工場に呼んで長くのびたのを切らせながら仕事を続け、疲れてくると、酒を一杯ひっかけて炉ばたのござの上でゴロ寝するという日が続いた。私が一生のうちで最も精魂をつくし、夜を日に継いで苦吟し続けたのはこのころである。たくわえも底をつき、妻の物まで質屋に運んだ。ここで挫折(ざせつ)したら皆が飢え死にするとがんばったが、仕事はさっぱり進展しない。絶体絶命のピンチに追い込まれた。

 こう思うようにいかないのは、私に鋳物の基礎知識が欠けているためだと気がついたのはそのときだった。そこでさっそく浜松高工(現、静岡大学工学部)の藤井教授をたずねてご指導をいただこうとした。先生は同校の田代教授を紹介してくれた。田代教授に私の製作したピストンリングを分析してもらうと、「シリコンがたりませんね」と言われた。私は「そんなものがないといけないんですか」といった調子、いまにして思えばこんな基礎的知識さえなく始めたのだから全く無茶だったとあきれかえるよりほかない。そこでやはり大きく飛躍するには根本的に基礎からやり直すべきだと思い、当時の校長足立先生にお願いして、浜松高工の聴講生にしてもらった。

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 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年2月23日付]

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