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私の履歴書復刻版

浜松在の鍛冶屋に生まれる(下) ホンダ創業者 本田宗一郎(2)

2016/9/8

 機械にあこがれ、エンジンに魅せられた私ではあったが、前述のように字に弱い私の通信簿の成績はあまりかんばしくなかった。その代わり、腕白小僧、いたずら小僧の名にかけては人後に落ちなかった。

 私どもの小学校の裏山にすいか畑があり、よくそこに忍び込みにいった。すいかに穴をあけ、中身だけはきれいに食べてしまい、あとは穴の方を下に伏せておいて逃げてくるという戦法である。しかし、ときには校長に見つかって大目玉を食ったこともあった。

 また、学校の近くに清海寺というお寺があって、飯の時間は村中がそこの鐘の音を標準にしていた。ある日、私は学校をサボって裏山で遊び歩いた結果、腹が減ってたまらない。そこで、そっとお寺に近づき鐘楼(しょうろう)に上って、その鐘をゴーンと、正午の時報を打ち出した。それで学校はじめ村中の時計が私の腹時計に合わせて早くなり、私は家にとんで帰って昼飯にありついた。これも私のしわざとわかり、あとはさんざんだった。そのほか、学校で飼っていた赤い金魚にエナメルを塗って青い金魚にしてしまったり、家に帰れば帰ったで、隣家の石屋さんが作っていた地蔵の鼻の形が気にくわないといって、父の仕事場からソッと金づちを持ち出て、地蔵の顔の彫りをなおそうとコツコツやっているうちに石地蔵の大事な鼻をあっと思うまにポロリと欠き落としてしまったりした。

 だが、そんな腕白ッ子の私にも、苦しかったこと、くやしかったことがあった。

 私の家は貧乏だったので、着物もそう買ってもらえるわけがない。だからソデ口はこすった鼻が固まって合成樹脂のようにコチコチになっていた。隣の家は金持ちで、5月の節句になるといつも弁慶とか義経の武者人形を飾るので、私はそれが見たくてしかたがなかった。しかし、見に行くと「お前みたいなきたない子は来ちゃいけない」と追い返された。そのときのくやしさは、いまでも忘れない。金がある、ないで人を差別する、なんでそうするのかと疑問を持ったことをいまだに覚えている。そんな経験を身にしみて感じとっている私は、金によって人間を差別するということは絶対に排撃する。これは現在の私の事業経営のうえでも、人間だれでも皆平等でなければならぬという考え方になって現われている。

 尋常小学校3、4年のことだった。その日は天長節で、学校では式があった。おふくろはカスリの着物の上に、新しい青い色の帯をしめてくれた。私は得意になって学校へ行ったが、実はそれは母の帯だった。仲間はそれと知って「やーい、お前の帯は女の帯だ」とさんざん私をいじめた。私は泣いて家に帰った。そのとき以来、私は考えた。色に男の色と女の色の区別があるのはおかしい。人間は自分の個性でいくべきで、色とか、格好とかに左右されるべきではない。人に不愉快感を与えたり、めいわくをかけるようでは困るが、着物や色は本来自由であるべきだと思った。

 いまでもその考えに変わりはなく、いま私が赤いシャツを着たり、勝手な格好をしているのも、こういう考え方からである。こういった勇気というか決断がもてなくてはいいデザインができるはずがない。デザインと芸術の違いについてはあとで述べる。

 さて、私は尋常小学校をおえると、二俣の高等小学校に進んだ。そして私が高等科を卒業するころには、おやじは鍛冶屋から自転車屋に商売替えしていた。そのためか、おやじは「輪業の世界」という雑誌をとっていたので、私もよく読んでいた。あるときその雑誌の広告欄を何気なく見ていると「アート商会」という東京の自動車修理工場の求人募集広告が目についた。

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 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年2月6日付]

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