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私の履歴書復刻版

浜松在の鍛冶屋に生まれる(上) ホンダ創業者 本田宗一郎(1)

2016/9/8

 私は明治39年(1906年)、浜松市の在、静岡県磐田郡光明村(現在天龍市)で生まれた。父儀平は鍛冶屋(かじや)、私はその長男で、いわばふいごとトンテンカンの槌(つち)の音とともに育ったわけである。おじいさんの代には百姓をしていたが、おやじの代になって鍛冶屋をはじめ、家は貧乏だった。それで、よく妹を背におんぶして学校に行ったり、ふいごを押して父の手伝いをした。物心がつくかつかぬかで、くず鉄を折りまげては何かわけのわからぬものを作って喜んでいた私だけに、トンテントンテンやって農具を作ったり修理する仕事はむしろ好きでもあった。

飛行眼鏡をかけ、スミス号の飛行士に憧れる。大正3年(1914年)

 学校へ行くようになる前から、私は機械いじりやエンジンには興味をもっていた。私の家から4キロほど離れたところに精米屋があって、そのころとしては珍しい発動機が動いていた。私はおじいさんに背負われてその精米屋によく連れてってもらったが、発動機のドンスカドンスカという音と、石油の一種独特のにおいをもった青い煙がたいへん魅力的だった。そこからさらに1キロほど離れて製材屋があり、そこではノコが勢いよくブーンとうなりを立てて回っていたが、私はそれを見るのがたまらなく好きだった。なにしろ機械の動くのを見てさえいれば、しごくごきげんなのだった。

 だから山東小学校(やまひがし)時代にも、理科は5年までの植物や昆虫は苦手だったが、6年になって電池とか天秤とか試験管、機械などが顔を出すようになってからは好きだった。もっともその理科も、頭ではよくわかり、先生に聞かれれば答えられるのだが、いざ試験となるとさっぱりだった。というのも、習字や読み方がきらいで、字を書くのがめんどうくさかったからである。とにかく手先は器用な方で、物を造らせられればだれにも負けない自信があったが、字ではうまく表現できない。つづり方や書き方がいやでいやで、その時間になると教室を抜け出し、裏山の木の上に登って空でもながめていることの方が多かった。これはいまも同じで本を読んでもスムーズに頭にはいってこないが、テレビだと耳と目の両方からきわめて能率的に頭にはいる。

 私が子供のころ、私どもの村にはじめて電灯がついた。そのとき私はペンチとドライバーを腰にした電気工夫が電柱に上っていろいろワイヤーをひねっている姿を見ていたく感激した。この姿が大げさに言えば英雄の姿にも見え、たいへん魅力的で家に帰っても忘れられなかった。そこで、いろりのソバにすわっているおじさんの肩に上って電気工夫よろしく、ハゲ頭の薄い毛をひねって「オレは電気工夫だ」といって得意になり、はしゃぎ回った。

 小学校の2、3年のころ、ある日学校から家に帰ろうと道を急いでいると、私の村に自動車が来たという話を耳にした。私は何もかも忘れてすっ飛んで行った。例のホロつきのやつで、村のせまい道をノロノロ走っていた。子供の私の足でもすぐ追いついて、自動車のうしろにつかまってしばらく走った。初めて見る自動車。それは感激の一語だった。停車すると油がしたたり落ちる。この油のにおいがなんともいえなかった。私は鼻を地面にくっつけ、クンクンと犬よろしくかいだり、手にその油をこってりとまぶして、オイルのにおいを胸いっぱい吸いこんだ。そして僕もいつかは自動車を作ってみたいな、と子供心にもあこがれた。そういうことがあってから、隣の町にちょいちょい自動車がやって来るようになり、私はそのたびに学校から帰るやいなや、妹を背に子守りをしながらいつもそれを見に行った。

 大正3年(1914年)の秋、私が小学校2年のときだった。約20キロほど離れた浜松の歩兵連隊に飛行機が来て飛んでみせるという話を聞いた。私はそれまで飛行機というものを絵では見ていたが、実物はまだ見たことがなかった。なんとかして見たいものといろいろ考えたすえ、父にせがんだところでどうせ許してもらえないと思った私は、その数日前、家族の目を盗んで「金2銭也」をせしめ、軍資金を準備した。

 いよいよその当日、私は何くわぬ顔で父の自転車を持ち出し、浜松に向かって一気にペダルを踏んだ。もちろん学校はサボったのである。だが小学校2年の私に、おとなの自転車は大きすぎた。しりがサドルに乗らない。そこで片足を三角に突っ込み、いわゆる三角乗りというやつで夢中でペダルを踏みつづけた。やっと連隊が目の前に見えたとき、私は胸のときめきをどうにもしようがなかった。

 だが、その喜びもつかの間だった。練兵場にはへいが張りめぐらされ、たしか10銭ぐらいの入場料をとっていた。2銭しか持たない私は自転車をかかえてしょう然とした。せっかく来たのだ。なんとか見たい。ふと目についた松の木に私はスルスルと登った。下から見つかっておろされたらおしまいだと思って、枝を折って下の方をかくした。

 こうして私は目的を達した。やや遠目ではあったが、私はここで初めて飛行機というものを実際に見、ナイルス・スミス号の飛行ぶりに感激した。帰途の三角乗りペダルは軽かった。スミス号の飛行士がハンチングのツバを後方に回して飛行眼鏡をかけた勇姿を思い出しながら、私はいつのまにか学帽のツバを後ろ向きにしていた。

 家に帰ったらきっとどなられるに違いないと覚悟していたが、初め怒っていた父は、私がこうやって飛行機を見て来たと話すと「お前、ほんとうに飛行機を見て来たのか……」と父自身感激してしまった。その後、私は父に鳥打ち帽をせがんでもらい受け、ボール紙で飛行眼鏡を作り、竹製のプロペラを自転車の前にとりつけた。そして鳥打ち帽を後ろ向きにかぶり、スミス号の飛行士を気取って得意になってその自転車を乗り回した。

>>第2回 浜松在の鍛冶屋に生まれる(下)

 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年2月2日付]

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