芋煮の肉といえば牛、豚、鶏? 味つけは醤油、味噌?
お肉問題(4)
お肉問題のVOTE速報値が届いた。数字をざっと眺めただけで「うわー」となった。西の牛、東の豚という従来言われていた傾向がはっきり出ているのである。予想以上の鮮明さに驚いている。
「お肉といえば牛」という回答が多かった上位10地域を順に並べる(数字は%)。奈良・徳島・高知(100)、京都・兵庫(89)、滋賀(88)、山口(87)、和歌山(85)、愛媛・大阪(82)
「お肉といえば豚」の上位10地域は群馬(86)、福島(82)、新潟(70)、宮城(68)、茨城(67)、青森(61)、岩手(60)、栃木・山形・沖縄(56)
日清食品は「どん兵衛」が発売20周年を迎えたのを機に1996年9月から2年間だけ肉うどんの肉を東日本型(豚)と西日本型(牛)に分けたことがある。そのときの東日本の境界線は愛知、岐阜、三重、西の境界は富山、石川、福井だった。速報地図と見比べてみると面白い。
「お肉といえば鶏」が20%を超えたのが鳥取・宮崎(33)、島根・沖縄・山梨(22)、岐阜・佐賀(20)だった。北海道で「羊」が15%となったのはよくわかる。
「天かす揚げ玉」問題は「天かす」の圧勝だった。「揚げ玉」が過半数を制したのは千葉と宮崎だけで、あとは日本全国天かすだらけである。実は私も天かす派。この際、意味もなくカミングアウトしておこう。
お肉の呼び方と実際に食べているお肉の関係はどうなっているのだろうか。お肉=牛の人は牛を食べる頻度が高く、お肉=豚の人は豚大好きというような平行関係になっているのか否かという点である。今回VOTEの項目に加えればよかったが、あの時点では思いつかなかった。残念。
仕方ないから、手元の総務省家計調査(平成 13年版)で1世帯当たり年間、何グラムの肉を買ったかを都市別、ブロック別に見てみた。詳細は長くなるので、文末の「おまけ」に。
また先週触れた「なぜ、いつ東日本は豚文化圏になったのか」という問題についても少し調べてみた。簡単にいうと東京に限れば大正年間に牛から豚への急速なシフトが起こった。そしてその原因は戦争とコレラとトンカツだった。
これも詳しくは「おまけ」をご覧いただきたい。
さて、このところ静岡のおでん屋に通っているのですが、ちょっと不思議なことがあります。メニューに「肉」とあるわけですが、これがあまり定まっていません。定番なのは牛スジと豚モツです。このほかに豚の小腸だったり肺臓だったりします。肺臓はフワと呼ばれ、静岡では牛のフワをおでんに入れることがあります。豚のフワは小さいので串に刺しにくいようです(「とことんおでん紀行」の新井由己さん)
山形の牛肉消費に関しては「おまけ」に書いている家計調査でもそうなっています。九州は佐賀牛、豊後牛というブランドがあるくらいですから佐賀、大分は確かに牛が強いかもしれません。
でも福岡はブランド牛はないはずだし、焼き鳥の「バラ」で豚の三枚肉を大量消費しているはずだし、どうなんでしょうか。宮崎は地鶏のもも焼き王国なので、VOTEでも33%が肉=鶏と答え鳥取と首位を座を分かちました。
芋煮情報。
大洲市役所のHPを見ました。
「いもたき」(公式にはひらがな表記のようです)は毎年8月下旬から10月下旬まで如法寺(ねほうじ)河原で行われています。主流は登録店への予約制。登録店は13店あり、予約すると席にコンロや鍋、材料が運ばれ、それを自分たちで料理して食べるスタイルです。いもたき専門店が屋外に出店したと考えればいいのでしょう。
自分たちで亀のように鍋や材料を背負い河原に向かって行進する東北式とはだいぶ違います。大洲市観光協会に聞いたところ、自前の鍋、材料で楽しむことも可能ですが、河原の向こう側や橋の下といった場所になり「照明用のバッテリーなんかもいりますから大変ですよ。登録店だと明るいし、1人前1500円からとお安いですし」と登録店の利用をそれとなくというか、きっぱりと勧められました。観光協会ですから。
「古くは藩政時代から伝わる『お籠もり』の風習を、昭和41年に観光事業化したのが始まりで、晩夏から中秋にかけて、涼しい川風の渡る肱川の河川を座敷として、大洲の夏芋(里芋)を炊きながら、舌の下でとろけるような味を楽しむという趣向が体験できます」とあります。
レシピも付いていて、里芋のほか椎茸、鶏肉、油揚げ、コンニャクを出し汁と砂糖、塩、薄口醤油、みりんで調味したものです。岩手県水沢市の「芋の子会」も鶏肉でしたね。
仙台の芋煮会で牛と豚が激突しているところに大洲の鶏と水沢の鶏がタッグを組んで乱入し、さらにウチの乱入デスクが乱入して凶器攻撃でも始めた日には一体どうなるんでしょうか。芋煮には牛だー。うんにゃ豚だー。とりとりとり鶏だー。味噌だー。醤油だー。
ここでデスク乱入準備 凶器は、サツマイモとジャガイモと長芋…。ついでにタロイモとフィリピンのウベもいっときますか。
と言ってしまっては元も子もないのです。でも、それくらい言いたいのが本音です。山形では物心ついたときから当然のように芋煮会はやっていましたが、当時そんな話を仙台の人なんかに言うと「芋煮を会でやっているのか。ハハハ」と笑われた記憶があります。仙台の芋煮は山形の真似であり、芋煮会をやるようになったのは最近ではないでしょうか。現在も芋煮人口はそんなに多くないと思いますよ。ところが山形は、まず芋煮をしないなんて人がいないくらい、赤ちゃんからお年寄りまで全員参加です。「先週は町内会で、昨日は友人と、明日は職場で、来週は子どもの幼稚園の行事で……」とワンシーズン数回経験することは当たり前田のクラッカーです。山形の人間の芋煮会に対する思い入れは相当なものがあります。ですから「にわか芋煮ファン」の他県の人と比較されるのは屈辱的でもあります(山形出身米国在住の後藤さん)
すごいですね。当たり前田のクラッカーを知っているんですから。ではなくて、すごいのは山形の芋煮会。もう食べる行事を通り越して山形県人のアイデンティティーそのものといった勢いです。
これでは文明の衝突が起きても仕方がないような気もしますが、大洲の方は300年の歴史があるそうですから、古いとか新しいとかはともかく牛も豚も鶏も仲良くやってください。そうでないと私、山形の芋煮会に怖くて行けなくなってしまいます。なにしろ私、芋煮をとんこつスープでやってみようと思ってるんですから。
海外芋煮族がけっこういますね。みなさんの思い入れを拝見していると、よっぽどいいものなんだろうなあと思えてきます。こんど私の故郷、福岡県久留米市は市長を迎えて「焼き鳥日本一宣言」をすることになっていますが、せっかくだからこの際、筑後川の河原で23万市民こぞって焼き鳥を焼く「鳥焼き会」でも始めたらいいかもしれません。
河川敷にずらーっと焼き台をならべ、持ち寄った何百万本もの串を焼くのです。衛星写真でみると九州全体が晴れなのに久留米の上空だけが煙で何も見えないくらいもうもうになって……というのはどうでしょうか。
福島県観光セクション担当者「芋煮会とは言いますが、鍋っこ遠足は聞いたことがありません」。秋田県の担当者「少なくとも県南では鍋っこ遠足とか鍋っこと言います」。というわけで、鍋っこ遠足は秋田の呼び方のようである。
続いてその他のネタをいくつか。
野瀬びっくり ワニがシーフードならカバも白熊もシーフード。でもワニはバッグでカバはキャラメルで白熊はアイスです。寅さんは、なすがままならキュウリはパパよ、と言っておりました。
東京でウヰンブル丼というのを食べたことがあります。ウインブルドンといえばテニス。テニスといえば伊達公子。公子の公の字を分解するとハム。
というわけでハムカツ丼でした。
店の所在地などは三林京子さんの「ああ書けば、こう食う」に写真入りで紹介されています。行ってみてください。
野瀬おわび すいません。ついさっきヒレカツ食ってきたところです。
野瀬同情 本当にそんなに怒らなくても。ぷんぷん。男女の衝突になってしまうではありませんか。でも全体の文面からするとその彼とはわ・か・れ・た? うんうんその方が良かったかも。ぷんぷん。
野瀬註 夫婦って結局どっちかが妥協しないとうまくいかないんですよねえ。私、しみじみそう思います。しみじみ……。
野瀬註 仙台に行ったとき喜助の外観写真を撮ってきました。でも入りませんでした。仙台駅でも牛タン弁当は買いませんでした。
前夜、東京の焼鳥屋でタン塩を思いっきり食べていたからです。うーっぷ。
天かす揚げ玉問題でこんなメールが。
野瀬心配 もしこのお子さんが天かす煮物を本当の天ぷらだと信じて大人になったときのことを考えると心配になります。「あれー、この天ぷら間違ってエビが入ってる。あっ、こっちはイカがまじってる。なんだこの店は」とか。
次回のテーマは写真の物件である。東京では「冷やし中華」と呼ばれている。辞書類では「冷やし中華そば」。だが、関西では「冷めん」と呼ばれている場面に何度も遭遇している。盛岡で冷めんといえばコリア式の押し出し麺。盛岡では果たして何と呼ばれているのだろうか。いや、それよりこの物件は存在するのだろうか。
というわけで、当物件の生息地図と名称を調べたいと思う。加えてこの物件がある地域でマヨネーズを入れるか否かを調べたい。こちらの方も地域差が出るような気がしている。ではいったん閉店。余力がある方は「おまけ」もどうぞ。
(特別編集委員 野瀬泰申)
[本稿は2000年11月から2010年3月まで掲載した「食べ物 新日本奇行」を基にしています]
<おまけ>
平成13年版総務省家計調査の内容はこうなっている。まず牛肉。道府県庁所在地で購入量(1世帯、年間、単位:グラム)が多かった順に並べると(1)和歌山1万4112 (2)奈良1万3226 (3)大阪1万2229 (4)熊本1万2057 (5)大津1万1944となっている。上位5都市のうち4都市を近畿勢が占めており、この統計からみる限り、VOTE結果と同じく近畿の牛肉志向は突出している。東北でも山形だけは1万0056で、ほかの東北各県のほぼ2倍の牛肉を買っている。やはり山形牛の産地だけのことはある。
豚肉の購入量が多かったのは(1)秋田1万9819 (2)静岡1万9767 (3)青森1万9413 (4)新潟1万8763 (5)横浜1万8111だった。東日本勢ばかりである。これもVOTE結果と同じである。
ブロック別に牛肉購入量が多い順に並べると(1)近畿1万1623 (2)四国1万1350 (3)中国1万1001 (4)九州1万784 (5)沖縄8043 (6)北陸7175 (7)東海6936 (8)関東6600 (9)東北5223 (10)北海道4737。見ての通りの傾向である。
豚肉は(1)東北1万8562 (2)関東1万7974 (3)北海道1万7901 (4)沖縄1万7592 (5)東海1万6729 (6)北陸1万5799 (7)近畿1万4868 (8)九州1万3878 (9)中国1万3508 (10)四国1万1995。
最も牛肉購入量が少ない北海道と最も多い近畿を比べると1対2.45。近畿の家庭は北海道の家庭の2.5倍近い牛肉を食べているようだ。豚は四国対東北が1対1.55になる。
ブロック別に牛を1とした場合どれだけの豚を買ったかを計算してみた。北海道3.78 東北3.55 関東2.72 北陸2.20 東海2.41 近畿1.28 中国1.28 中国1.23 四国1.06 九州1.29 沖縄2.19。個人的に驚いたのは四国で牛と豚が拮抗(きっこう)していることである。四国がそんなに牛文化が強い地域とは思っていなかった。中国はもともと牛飼育の歴史が深いところなので納得できるが、意外だったのは九州。私が子どものころは肉類そのものが貴重で、たまに口に入るのは豚肉で牛などは存在は知っていてもただあこがれるだけの食べ物だった。豊かになったということだろう。
さて、統計としては西の牛、東の豚がはっきりと裏付けられたわけだが、そんな傾向が定着したのは一体いつごろで、どういう理由によるものなのだろうか。
前回書いたように明治維新を機に日本人は公然と肉類を食べるようになった。そして日本人の肉食は牛から始まった。牛が農作業に使われていた近畿、中国、四国などは牛の産地でもあったから牛肉食になったのは当然として、東京も牛鍋、牛飯のような形で牛を食べていた。豚ではなかった。なぜか。「明治の初め、肉食が解禁になったとき、牛肉人気が独走して豚肉が不人気だったのには理由がある。端的にいえば、豚は残飯やその他あり合わせの餌で飼われていたため、不浄感が強かったのである」(伊藤記念財団刊『日本食肉文化史』)。また明治6(1873)年10月29日の東京日々新聞に「豚肉喰うべからず」という記事が出ている。豚肉は肥満の原因になり「早く止めざれば他の病を生ずべしと。是全く実験の説なり、世間の人の為に新聞紙に出す」と(小野秀雄著『新聞資料 明治話題事典』)。
だが、東京をはじめ都市近郊農家では豚の飼育が次第に盛んになっていく。といっても食用ではなく肥料を得るためだった。化学肥料が普及する以前、豚のし尿は貴重な肥料で、しかも残飯でも何でも食べてくれるから農家にとってもありがたい家畜だった。
ところが洋食の普及が豚を食べる習慣を広げていく。東京にいわゆる大衆的な洋食店が次々に現れるようになったのは明治20年ごろのことだったという。小菅桂子著『近代日本食文化年表』の明治20年の項に「この年東京では三橋亭(上野)、三緑亭(芝公園)、東亭(芝)、亀田(神田)、宝来亭(神田)、りゅうきん亭(神田)、旭亭(下谷)といった西洋料理店が相次いで開店する」とある。現存する東京で最も古い洋食店「煉瓦亭」の開業が明治28年。ここで「カツレツ」の付け合わせが温野菜から刻みキャベツに変わり、カツとキャベツという今日に至る名コンビが誕生した。だが、カツはまだビーフだった。明治30、40年代になると東京の洋食店は1500軒から1600軒にのぼったという。
日清戦争(明治27~28年)、日露戦争(明治37~38年)で牛缶が大量に戦地に送られ牛肉が不足したことも豚肉に目を向けさせる契機になった。
そして大正元(1912)年に事件が起きる。コレラの流行である。警視庁はコレラの流行を防ぐため生食をしないようきつく指導した。「このため一般家庭にも魚食をやめて肉食に切り換えるところがふえ、その際、安い豚肉が注目されたのである」(『日本肉食文化史』)。その4年後には大正天皇の食卓に初めて豚肉が登場した。
「豚肉はまず、牛肉のかわりにカレーに入れられ、ポークカレーとして登場した」。その後、「豚肉をカツレツにすればとくに美味しいことが一般に知られることになり、大正年間にはビーフカツの需要をポークカツが追い越す勢いになった」(宮崎昭著『食卓を変えた肉食』)。
吉田忠著『牛肉と日本人』も同様の見解をとっている。「そこで東京人は、明治のうちに一足早く、豚肉による食肉消費の増加を経験することになったが、トンカツ、コロッケ、ハムなどの形で豚肉消費が多様化するのは大正期に入ってからであった。結局、牛肉でしているのと同じやり方で食べてみよう、豚肉の味が薄いところはその分砂糖と醤油を少し多めに使ってみたらどうだろう――こうして、豚のスキヤキと豚ジャガがあらわれた、と考えられる」
昭和2年に農林省畜産局がまとめた「本邦の養豚」という統計書を見てみたら大正5(1916)年末に全国で33万7891頭いた豚が9年後の大正14年には67万2583頭と2倍になっていた。
少なくとも東京の豚肉食が本格的になったのは大正年間であった。前回半ば冗談で「トンカツの発明がきっかけになったのでは」と書いたが、こうしてみると決して間違いではないようだ。原因はそれだけではないけれど、トンカツこそ東京人が豚肉好きになった理由のひとつであることは確かなようだ。東北や北海道が豚肉文化圏になった理由についてはわからない。というより、これまで調べたところでははっきりしたことを言うことはできない。沖縄については明治以前から豚肉食が普通であったことはよく知られている。産地を抱える近畿以西の地方は牛肉が相対的に安く、かつ味が良かったために大正期になっても東京ほど豚の需要がなく、明治以来の牛肉志向が今日まで続いているということのようである。
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