ライフコラム

けいざい半世紀

ヤマハ、世界を奏でた音楽教室の50年

2014/6/27

 最初の東京五輪が開催された1964年は今の日本の原型を形作る交通インフラや新サービス、新商品が産声を上げました。東海道新幹線が開業、首都高速道路の整備が進んだのもこの年です。新コラム「1964年~ ニッポンの大いなる助走」は50年前のあのころをスタートラインとして次の50年、日本が駆けていく先を読み解きます。
日本で生まれた「ヤマハ音楽教室」は世界に展開している(ドイツの教室)

 クラシック音楽は欧州で生まれ、ピアノやオルガンなどの楽器も世界に広がった。しかし戦後、世界のピアノ界を席巻したのは日本メーカーの製品だった。最大手の日本楽器製造(現ヤマハ)は子供向けの音楽教室を通じてピアノ購入の需要を生みだし、手軽に演奏を楽しむ文化を広めた。50年前の1964年、極東で生まれた音楽教室は太平洋を越え米国でも始まった。

世界40カ国・地域以上に展開

 「ヤマハ音楽教室」はこの6月、「戦後日本のイノベーション100選」に選ばれた。戦後に社会変革をもたらした創造的な経済活動を評価するもので、新幹線、インスタントラーメン、ウォークマンなどのハード事業が並ぶ中、公文式教育法などと並び数少ないソフト事業として選出された。

ヤマハの音楽教室を契機にピアノ・オルガンが子供の習い事として定着した1960年代の教室風景

 ヤマハとヤマハ音楽振興会(東京・目黒)が展開する音楽教室は先進国から途上国まで世界40以上の国・地域に広がっている。生徒の数は約65万人、卒業生は500万人を超す。

 「音楽教室の手法は当時としては、相当ユニークなものだった」と同振興会の藤山真裕・海外部部長は語る。きっかけは53年、当時の故川上源一社長の欧米視察だった。訪問した家庭でギターやピアノの演奏によるもてなしを受け、衝撃を受けた。当時の日本では、演奏のプロは市民とは隔絶された存在で、家族で楽器を奏でるような習慣はなかったからだ。「もっと手軽に演奏するものとして楽器を普及させたい。音楽は楽しみながら学べるはずだ」。ワンマン経営者として名をはせた川上社長。帰国後、すぐに音楽教育の研究を始めさせた。

 当時、小学校での音楽教育は戦前の唱歌教育から、笛やカスタネット、そしてオルガンなど実際に楽器を奏でる器楽教育への移行途中だった。といっても、教育現場で楽器演奏を教えられる教員は少ない。ヤマハはアドバイザー役として、音楽家たちからなる講師団を組織し、学校への自社製のオルガンの納入と並行して、講師を派遣して教員に教育法を指導していた。

 この指導経験が独自の音楽教育システムを構築する素地となり、翌54年、銀座の東京支店の地下で直営の「実験教室」がオープンした。生徒数は約150人で先生は女性ピアニスト。営業店や取引先である楽器販売店の協力を得て全国に教室を展開していった。

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