今だから明かせる「テレ朝バラエティー」好調の源流
日経エンタテインメント!
2012年度の視聴率戦で2冠(ゴールデン、プライム帯)を達成したテレビ朝日。今年度に入ってからも日本テレビとのデッドヒートを繰り広げており、テレビ界はすっかりこの2局の2強時代になった。
ドラマやスポーツ、報道番組といった全方位での強さを見せるなか、その安定感に大きく貢献しているのがバラエティー番組。なかでも『アメトーーク!』や『ロンドンハーツ』など、いくつもの"テレ朝印バラエティー"を手がけているのが加地倫三である。
加地は1992年の入社後、スポーツ局に配属。96年より編成制作局に異動、バラエティー制作に携わるようになった。その"事始め"がナインティナインの『Q99』『Q992』(96年4月~97年3月)や『ナイナイナ』(97年4月~99年3月)。『ナイナイナ』は、今年4月からCSのテレ朝チャンネル1で14年ぶりに放送、ちょっとしたお宝映像として、話題を呼んでいる。
当時のテレ朝バラエティーは、華やかで高視聴率の日テレやフジテレビの陰に隠れた存在だった。逆転現象となった今、「僕の学校だった」と加地が言うナイナイの番組を例に、それが現在の制作姿勢にどうつながっているかを聞いた。
テレ朝はバラエティー後進国、「ここに染まらないぞ」
90年代後半のテレ朝は、『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー』のような人気番組はありましたが、それはごく一部で、全体的にはバラエティー後進国でした。プロ意識が低かったり、番組の作りも甘かったと思います。若手だった僕は、それを反面教師にして、「ここに染まらないぞ」って思ってました。なんの実績もないのに。
もともとフジテレビに入りたかったので、局内にバラエティーの先生はいないと思っていたんです。世代的にも、黄金時代のフジテレビを見て育ってきたので、僕のなかでは、バラエティー=フジテレビでした。
――そんな加地にとってラッキーだったのは、ADとして最初に担当したバラエティーの現場にフジテレビのノウハウを持ったスタッフが何人もいたことだ。
ディレクターは、フジテレビで数々のバラエティーを作ってきた"師匠"北村(要)さんに、『めちゃイケ』などを担当する日本一のバラエティーカメラマンの辻(稔)さん。MCのナインティナインもフジのイメージが強かったから、当時はただただ、「この番組に入れてよかったー」って(笑)。もし違う番組についていたら、今の自分はないと思います。
――別部署から異動してきた加地がバラエティーの現場で最初に学んだのは、お笑い芸人との接し方だったという。
『Q99』の何回目かのロケで、空き時間に矢部(浩之)さんにいろんなことを次々質問したことがあったんですよ。それまで4年間担当していたスポーツ局時代のクセで。スポーツ選手の場合、仲良くなるために、番組スタッフは積極的にグイグイ話しかけていくんですけど、その感覚で矢部さんに接したら、何個目かの質問のときに「なんでそんなに聞くの?」って、本気で嫌がられたんです。
冷静に考えたら、当時の僕はADで何の力も信用もないし、そんな人間といきなり親しげに付き合おうとするわけがない。「芸人さんという生き物はこういう接し方をあまり好まないんだ」って、まずここで学びました。
それを機に、基本的には自分のADとしての仕事だけを全うすることにしました。芸人さんが向こうから話しかけてくれるまで、自分から話しかけるのはやめました。
――『Q99』の後続番組『ナイナイナ』では半年間ADを務め、ディレクターに昇格。時を経て、矢部とも対等に話せるようになった。
話せるようになったのは、やっぱり飲みの席ですね。当時はカラオケでパンツ一丁で歌って踊ったりとか、そういうこともしてたので。SMAPの『SHAKE』をテンションMAXで踊るんですよ。それを矢部さんが面白がって、何回もフッてくれるというミニコントをしてくれたり。
もっと少人数の「矢部会」っていう飲み会では、熱いお笑い論や深い話をたくさんさせてもらいました。「こういうとき芸人はこう考えるから、ディレクターはこうしなければいけない」とか。矢部さんが丁寧に教えてくれる人だったのも、僕にとっては運がよかった。他局でも矢部さんからいろいろ教わったというスタッフって、いっぱいいると思います。
――さらにバラエティー番組作りを学ぶ上で決定的だったのが、当時担当した番組のスタッフの基本姿勢だ。
演者と対等な関係性、「面白い番組を作るチームメイト」
僕の師匠である北村Dがそうだったんですけど、演者とスタッフの関係性がすごくフラットなんです。それまでは、テレビ番組って「タレントさんと裏方さん」みたいな関係性で作られるイメージがあったんですけど、「一緒に面白い番組を作るチームメイト」っていう接し方があることを学びました。隣に自然にスッと座って普通に話しかけたり。それまで自分が見てきたほかの番組は、「演者様!」みたいな感じがありましたから、なおさら、「認められると、あんな接し方ができるんだ」って。今の僕の番組作りの姿勢は全部ここで学びましたね。
――『ナイナイナ』には他番組にないこんな特徴もあった。
簡単に言うと、視聴率のことを気にしていない番組でした。「面白いものを作りたい」っていう気持ちのほうが圧倒的に強かったんです。もちろん時代の違いはあるでしょうが、現場の会話でそういう話題が出ないから、視聴率の良しあしもイチイチ覚えていない。企画が面白かったかどうかという印象だけが残っている番組です。
「岡村隆史のもっこりが止まらない!」というムチャクチャな企画をやるときには、部長から「これで1本やり通すのはどうか」といった電話が携帯に何度も何度もかかってきました。それでも今振り返ると、自分は最初の数年間「どうやったら面白い番組を作れるか」っていうところだけを突き詰めて勉強できたのが良かった。その後、自分の立場も少しずつ変わって、数字やほかの細かいことも勉強していくようになるんですけど、基本は「面白いかどうか」という部分が大事なんだと強く思います。もし僕にそういう経験がなかったら、今でも「なんかひと味足りないなー」っていわれる番組をやっていたような気がして。
――昔ほど悠長なことを言える時代でなくなったかもしれないが、加地は、若手社員にも自身と同様の経験をしてほしいと願っている。
若い人たちにも、できたら自分がこれまで経験してきたような番組を経験させたいなって思っているんです。今年新入社員が入ってきたんですけど、「5年目までは何が面白くて、何が面白くないかという基本だけを勉強しろ」って言いました。
当時僕がやってた番組は粗削りで、編集のテクニックとか全くないまま作っていたんですよ。テロップの枚数も少ないですし、ナレーションもほとんどない。
今は、「とりあえず撮って、あとで編集でなんとかしよう」っていう番組も多いと聞きます。『ナイナイナ』はそんなノウハウも概念も無かったから、「現場がすべて」の切れ味勝負だったんですよね。でも、それが基本です。テクニックだけ身に付けても芯のある面白い番組は作れませんから。
――改めて現在のスキルをもって『ナイナイナ』のような番組を作ってみたいか尋ねると、「やりたいですけどね」と笑い、こう続けた。
あの頃のキレ味を今の自分が出せるかは心配です。編集など、いろんなテクが身に付いちゃいましたから。もっと正直に言うと、当時僕が作った作品に、今の自分が勝てるか分からない。今のほうが完成度は高いかもしれないけど、思い切りみたいなものが足りないかもしれない。でも、もう一度『ナイナイナ』をやってあの頃に勝てる作品を作れれば、キレ味をもっと身に付けられる。そうすれば『アメトーーク!』や『ロンハー』ももっと面白くできそうですね。
テレ朝深夜・伝説のバラエティー『ナイナイナ』
『ナイナイナ』は、1997年4月から99年3月まで23時台で放送された、ナインティナインのバラエティー番組。当時20代の2人が、実験的かつ体当たり企画にチャレンジして話題に。「女風呂ロケを追跡!」「火事場の馬鹿力は本当か?」といった、現在のテレビでは見られないようなバカバカしい企画が満載で、ダチョウ倶楽部のリアクション芸をVTRで検証するコーナーなど、のちの『アメトーーク!』に引き継がれている要素も多い。加地が特に気に入っている企画は、「矢部は岡村を本当に愛しているのか?」。コンビ愛を確かめる企画で、のちに総集編でナイナイが2人とも「一番気に入っている」と答えている。
CS放送テレ朝チャンネル1では、全放送分から厳選した企画を『ナイナイナ セレクション』として放送中。テレ朝チャンネル1では『ナニコレ珍百景』『お願い!ランキング』のスピンオフ番組『ゲキレア珍百景』『お願い!ランキング予備校』などのオリジナル番組も放送中。
(ライター 遠藤敏文)
[日経エンタテインメント!2013年8月号の記事を基に再構成]
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