ナショジオが明かす アンデス最古の帝国の謎
ペルー
ワリ帝国は、南米アンデス地方に生まれた最初の帝国と考えられている。紀元7世紀までには、現在のペルー南部アヤクチョ市の近くに現れ、インカ帝国よりはるか以前に繁栄の時代を迎えていた。広大な都が擁した人口はおよそ4万人。同時代に人口2万人弱だったパリをはるかに上回る規模だった。ワリ帝国はこの都を拠点に、アンデス山脈に沿って数百キロ北上し、さらに太平洋沿岸の砂漠地帯へと領土を広げていったのである。
ただし、この国がどのようにして広大かつ多様な領土を手に入れ、抵抗勢力を統治したのかは、研究者にとって長年の謎だった。武力で制圧したのか、説得したのか、それとも両方を駆使したのか。文字を持たなかったワリには歴史の記録が残っていない。
だが都から約850キロ離れた、ここエル・カスティージョで発見された豊富な出土品によって、徐々にその空白は埋まりつつある。
最新機器がつきとめた王族の墓
ポーランドのワルシャワ大学でアンデス考古学を教えているミリオシュ・ギエルシュは36歳。かつてペルーで繁栄したワリ文化の織物や土器の破片がこの丘で見つかっていたことから、「1200年前に、エル・カスティージョで何か重要なことが起きていた」と確信していた。
ギエルシュの調査隊は、磁力計を使って地下構造物の形状を探り、たこに装着したカメラで一帯を空から撮影した。すると、長年にわたって墓泥棒たちが見落としていたものが浮かび上がってきた。南の岩山の尾根沿いに埋まっている壁の、かすかな輪郭だ。
迷路のように複雑かつ大規模な構造が、エル・カスティージョの南端に不規則に広がっていた。祖先崇拝のための神殿だったらしく、もともとの外壁は深紅に塗られている。ギエルシュ率いるポーランドとペルーの合同調査隊は、発掘の許可を申請した。
2012年秋にそこで、驚くべきものが発見された。未盗掘の王族の墓だ。ワリ帝国の王妃あるいは王女の遺体が計4体、貴族の遺体が少なくとも54体埋葬されていた。ほぼすべてが成人女性か少女だった。そして大きな金の耳飾り、銀製の器、銅合金の斧(おの)など、一流の細工が施された遺物も1000点以上見つかった。
「ここ数年間で最も重要な発見です」と、リマ美術館の学芸員セシリア・パルド・ラウは語る。
侵略者ワリのメッセージ
ワリがエル・カスティージョのある沿岸部に攻め込んだのは、8世紀の終わり頃と推測される。ここはモチェ文化を築いた裕福な王たちが治めた領土の南端に位置するが、当時は有力な支配者が不在だったようだ。ワリがどのようにしてこの地を攻略したかは定かではないが、エル・カスティージョの王族の墓からは、長柄の斧(おの)を振り回すワリの戦士たちと、投槍器を使って応戦する沿岸部の人々を描いた儀式用の酒杯が出土している。
激しい戦いの末に、この土地を征したのはワリだった。新たな支配者はエル・カスティージョの丘の麓に宮殿を建設。その後、自分たちの祖先を祭るために、急峻(きゅうしゅん)な斜面を利用して、高くそびえる深紅の神殿を建設していった。
エル・カスティージョはワリの王族にとって極めて重要な施設で、その建設には「地元のあらゆる労働力が動員された」とギエルシュは語る。新たに出土した壁のモルタルの多くには、11~12歳とみられる子どもの手形も残されていた。
建設が終わったのは、おそらく紀元900~1000年ごろのことだ。エル・カスティージョは、生きている者たちに「侵略者のワリこそが、現在の正統な支配者である」という強力な政治的メッセージを伝える役割を果たした。
(文 ヘザー・プリングル、写真 ロバート・クラーク)
(日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2014年6月号の記事を基に再構成]
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