健康・医療

医人たちの挑戦

震災で島民との絆強まる 医師・山本馨さん(4) 気仙沼の離島でへき地医療

2011/6/26

 東日本大震災から3カ月以上がたち、宮城県気仙沼市の離島、大島の島内の電気、ガス、水道はすべて復旧し、本土とを結ぶフェリーや客船も1時間おきに運航するなど日常を取り戻しつつあります。本土では津波で被災したスーパーも被害を免れたフロアを使って営業を再開しています。

宮城県気仙沼市の離島でただ一人の医師として震災後も診療を続ける山本馨医師

 島内の避難所も次々と閉鎖され、1千人以上いた避難者も今では100人以下に減りました。震災後の島の健康を守ってくれた医療ボランティアも6月に入って引き上げました。

 ただ、依然として多くのがれきの山が手つかずのまま残されており、津波で被災したフェリーも無残な姿をさらしたままです。島を離れる人も相次いでいます。私の診療所に通院していた患者も40~50人が知人や親戚を頼って東京や山形、仙台などに移っていきました。

 一方で、診療所を訪れる人は震災前よりやや多い程度です。6月からは往診も再開しました。震災直後に薬が手に入らなかった影響か、心臓など循環器系の疾患が悪化した人が増えているのが気がかりです。

 あと避難所暮らしでトイレをがまんしたからでしょうか。泌尿器系の不調を訴える人もいます。がれきの撤去で粉じんを吸い込み、空ぜきの症状を訴える若い人も見かけます。

 島に来て5年がたちますが、今回の震災を経験して島の人たちとの絆が一層強くなったと思います。「先生がいてくれて助かった」と温かい声をかけてくれる人もいて、本当にうれしい限りです。

震災から約1カ月後、医薬品販売会社の担当者から在庫状況について説明を受ける山本馨医師

 地域医療に長年携わってきて、大事なのは志だと改めて感じました。医師不足解消のため増員が叫ばれていますが、私が医師免許を取った当時の国家試験の合格者数は3千~4千人。それに対して今では2倍の8千人前後が合格しています。人数を増やせば医師不足が解消されるというものではないと思います。

 私が医学部を目指したのは黒沢明監督の映画「赤ひげ」を見て、富や名声を顧みず貧しい庶民に医療を施す医師の姿に感銘を受けたからです。きっかけは何でも構いません。医師を志す明確な目的を持った人が1人でも増えれば、おのずと医師不足は解消されると思っています。

 また、地域医療は幅広い知識が求められます。大島に来てから珍しい病気の患者さんに数多く出会いました。この2~3年でもギラン・バレー症候群や川崎病、延髄外側症候群、WPW症候群など神経系から循環器系まで様々な疾患を診てきました。

 こうしたことは、ちょっと勉強したからといって分かるものではありません。経験が必要です。初診で見誤れば重い後遺症として残ったり、患者の生死に関わったりしかねません。

 もちろん診療所だけで対応できるわけではありません。いかに適切に病気を見極め、大きな病院に紹介できるかが地域医療に携わる医師に求められる力だと思います。派手さはないかもしれませんが、地域医療はやり方次第ではやりがいのある仕事だと思っています。

 私はもともと大島に骨を埋めるつもりで来ました。総合病院や大学病院より医師個人の裁量で動ける離島の診療所の方が挑戦できることは多いと考えています。震災に負けることなく、これからも研さんを積んで本土に負けない地域医療体制を大島に作りたいと思っています。

(山本馨さんの項は今回で終わります)

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 山本馨(やまもと・かおる) 1945年福島県二本松市生まれ。71年東北大医学部卒業後、福島県内や北海道内の病院勤務などを経て、99年に北海道倶知安町に「山本内科消化器医院」を開業する。2007年から無医地区だった宮城県気仙沼市の離島、大島に移り住み、「大島医院」で島民の診療に当たる。現在、妻と2人暮らし。

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 へき地医療、医師の偏在、医療事故――。「医人たちの挑戦」は、転換期にある日本の医療現場で逆境に立ち向かう人の姿を隔週で紹介するコラムです。医師や患者ら6人の筆者が、それぞれの体験を通して日本の医療の今をつづります。

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