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キャリアの原点

自分を壊す「怖さ」と「勇気」を知った修業時代 落語家 立川志の春さん(上)

2016/5/12

 「イエール大学卒」「元一流商社マン」――。異色の経歴を持つ、落語家の立川志の春さん。彼はなぜ、エリートサラリーマンの道を捨てて、落語の世界へと進んだのか。そして、それまで慣れ親しんだロジカルな考え方と相反する、一見すると理不尽に思える師弟関係の中で何を学んだのだろうか。

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 落語家の立川志の春と申します。立川志の輔の弟子です。落語の修業というのは、「見習い」に始まり、「前座」「二つ目」「真打ち」と進んでいきます。私は現在、その「二つ目」。見習い、前座のうちはただひたすら落語家になるのを諦めないことに必死でした。

「この人の弟子になる」と決めた

 師匠の落語を初めてみたのは、2001年11月のことでした。三井物産に入社して2年半というころ。豪州から日本へ鉄鉱石を輸入する部署にいて、配船サポートや、日本の製鉄会社と豪州鉄鉱山との間のコミュニケーションを取り持つ業務を担当していました。

 「いいか、これがヘマタイトだ。キラキラしていてきれいだろう? このキラキラした石の60パーセントくらいが鉄でできているんだ。この石を俺たちが輸入し、日本の製鉄会社に運んで、それがやがてあのビルや橋、車になるんだぞ!」

 目の前の石より何倍も、目をキラキラさせて話す先輩たち。「すごいっす!」なんて相槌を打ちながら調子を合わせてはいましたけれど、私もいつかこんな風に熱く鉄を語れるようになれるのだろうかと思うと、自信がありませんでした。

 商社に入ったのはたまたまです。父の転勤で小学校の3年間はニューヨークにいましたし、米国の大学に留学もしていましたから「英語が生かせる仕事かな」とは思いました。それよりも決定的だったのは、人事部の女性が美しかったこと。「こんなきれいな人と働けるなら……」という邪(よこしま)な動機で入社を決めたものですから、長続きするはずもなかったんです。

 仕事が嫌いだったわけではありません。ただなんとなく、モヤモヤする感覚はありました。米国の大学を選んだのだって明確な目的があったわけではなく、「ここで行かないと後悔するぞ」という直感に従っただけのこと。自分がなりたかったのはなんだったんだろうと思っていた時に、師匠、そして、落語と出合ってしまった。

立川志の春さん

 落語を「生」でみたのも、その時が生まれて初めてでした。世の中にこんなおもしろいものがあったのか、と衝撃を受けました。スティーブン・スピルバーグやウディ・アレンの映画よりも、こっちの方が断然、おもしろいじゃないかと思いました。何がすごいかって、目の前で師匠が消えるんです。代わりに、登場人物が生き生きと動き出す。まるで、最上級の小説を読んでいるかのような感覚でした。

 「この人の弟子になる!」。会場を出る頃には、すっかりその気になっていました。

「ウロウロしてろ」で、晴れて入門を認められる

 留学を決めた時と同じように「落語をやらないと一生後悔するぞ」と思った私は、まず、師匠に手紙を書きました。自分がどれだけ落語、それも師匠の落語に魅了されたか。一目惚れした女性に手紙を書くような気持ちです。幸運にも「スタジオまでいらっしゃい」と連絡があり、履歴書を持って駆けつけると、こう言われました。

 「君の落語に対する気持ちはよくわかる。ただ、プロの世界は厳しい。落語は趣味でだってできる」

 中途半端な気持ちが、透けて見えちゃっていたんだと思います。サラリーマンのままで「落語家になりたい」などと甘っちょろいことを言っていたのですから、今となっては恥ずかしい。師匠に対してはもちろんのこと、必死で修業を続けている兄弟子たちに対してもなんて失礼なことをしたんだろう、と後悔しました。

 反対する両親を説得し、会社を辞め、再び師匠に弟子入り志願したのは02年10月のことでした。入門できる保証はまったくありませんでしたが、楽屋口に出てくる師匠を待ちぶせして、こう切り出しました。

 「会社を辞めてまいりました。弟子にしてください!」

 師匠にしてみれば、弟子にする義理などありません。実際、弟子をとらない「真打ち」もたくさんいます。「辞めるなと言ったじゃないか……」と言っていた師匠も、最後にはこう言ってくれました。

 「辞めちまったんなら仕方がない。そこらへんウロウロしてろ」

 じつは、師匠が立川流家元である談志師匠に入門する際に言われた言葉が、この「ウロウロしてろ」。そのことを知っていた私は、心の中で快哉を叫びつつ、深々と頭を下げました。

ダメダメだった見習い時代

 正式に「弟子」と認められるのは、芸名をもらい「前座」になってから。それまでは単なる「見習い」という立場です。東京・恵比寿の4畳半、風呂なし、トイレ共同アパートから、毎日、師匠の元へ通いました。

 最初に任されたのは車の運転でした。テレビやラジオ、雑誌の取材現場などに向かう師匠のお伴。要するに「かばん持ち」というやつです。そんなの簡単だろうと思っていましたが、これが、けっこう難しい。

 「俺を快適にしろ」

 求められるのは、たったこれだけです。これは家元、立川談志師匠の言葉で、立川流のいわば伝統となっている教えでもありました。

 車の運転一つとっても、師匠が快適なルートの選択やスピード、ブレーキの踏み方、ウインカーを出すタイミングなどがあります。どうやら、私はそのすべてがズレていたようで、そのたびに怒鳴られました。

 「お前、もう、明日から来なくていい!」

 そう宣告されるたびに必死で謝り、クビをつなぐだけで精一杯でした。

 私は怒られることに慣れていませんでした。さすがに口答えはしませんでしたけれど、師匠に雷を落とされても、心のどこかに「でも、私はこう思う」と言いたい気持ちがくすぶっていました。表情にも出ていたと思います。米国にいる間は、自分の意見を明確に主張し、その理由も含めてロジカルに説明できなくては認めてもらえませんでしたから、弟子入りしても、つい、「私はこう思う」と言いたくなってしまう。

 師弟関係においては、黒いものでも、師匠が「白だ」と言えば白と思え、とはよく言われます。しかし、それはまだ序の口です。単に顔色を窺っているだけですから、後手に回っています。見習い時代に叩き込まれたのは、そうではなくて、「言葉にしていない俺の気持ちを読め!」ということだったと思います。

 師匠の態度をよーく観察し、声色を聞き分け、本当に「白」だと思っているのか、あるいは「黒」だと思っても、わざと「白だ」と言っているのか。その辺りの機微を判断できるようにならないと、一人前とはみなされません。

 落語は人間を語る芸です。「人間がわからないで、どうやってお客さんを楽しませることができるんだ!」。師匠はおそらく、そう言いたかったのだと思います。その点、私はかなりの劣等生でした。

 相手と同化するくらい徹底的に考えなければ、人を快適になど出来ない。憧れの存在である師匠に対してそれが出来ないならば、他の人に対して出来るわけがない。でも26歳で入門した私にとって、それまでにこびりついた「自分は、自分は」という部分を壊すのは、とても難しいことでした。

立川志の春氏(たてかわ・しのはる)
1976年生まれ、大阪府豊中市出身。千葉県柏市で育つ。幼少時と学生時代の計7年を米国で過ごす。米イエール大学卒業後、三井物産に3年半勤務。2002年、退社して落語家の立川志の輔氏に入門。11年、二つ目昇進。英語落語も手がける。13年、NHK新人演芸大賞本選選出。近著に「自分を壊す勇気」(クロスメディアパブリッシング)。

(ライター 曲沼美恵)

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