「強く個性的であれ」 八木沼純子さん、母を語る
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はフィギュアスケート解説者の八木沼純子さんだ。
――5歳でフィギュアスケートを習い始め、14歳でカルガリー五輪に出場。当時と今では練習環境が違う?
「今は東京のクラブだと入会3年待ちだとか。私の時代はすぐにクラブ員になれたし品川プリンスクラブにはリンクが3面もあった。家で朝食を食べて6時にはリンクに立ち、2時間練習してから学校に行く。下校後は午後4時半から1時間半滑って母が作ってくれた夕食のお弁当を食べ、7時半から9時までは一般の人を入れないリンク貸し切り。9時半から11時までまた練習と、そんな毎日でした」
――お母さんはリンクにずっとつきっきりで見ていた?
「どのお母さん方もアグレッシブ。娘の滑りに業を煮やし練習曲入りのカセットテープをリンクサイドから娘に投げつけ『もう帰りなさい!』とかね。あるコーチが教え子に怒ると、その怒りがほかのコーチに伝わり、さらにお母さん方に伝染するという怒号が飛び交う世界でした」
――まだスパルタ教育が当たり前だった時代ですね。
「うちの母もすごかった。『先生に対する態度が悪い』とブランド物のバッグで引っぱたかれ、ひもが切れたら『あんたのせいで壊れた!』『なんでよ!』と取っ組み合いのけんかになった。あんたはコーチかというくらいうるさくてノイローゼになりそうだった。フィギュアは自分をどう作り上げて戦っていくかというスポーツ。だから母からは『いつも強くあれ。個性的であれ』と言われました」
――お母さんも個性的?
「学生時代から型破りで、女子部の塀を乗り越えて男子部に遊びに行ったとか、制服姿のまま禁じられていた後楽園へボウリングやスケートをしに行ったりとか。後楽園では、高校の後輩で当時選手だった福原美和先生の練習を見ていたそうです」
――ではフィギュアスケートはお母さんの影響ですね。
「私自身は見たこともなかった。体操や水泳も習ったけど、娘が楽しそうに滑って少しずつ技ができるようになると、両親は『意外とこの子できるかも』と、ちょっとマジックにかかったみたい。師事した福原先生に『シングルアクセルを飛べたら試合に出してあげる』と言われてからは、母娘ともはまり込んだ。母に言わせると『競馬の調教師みたいにいかに名馬に育てるか、その面白さがフィギュアにはあった』と」
――お父さんは?
「父はフリーの工業デザイナーで、作品を順位づけられるフィギュアが自分の世界と重なって共感したのかも。大事なときにがつんと言ってくれるのが父。母は常に前面に出てしゃべり、母親同士のやっかみから私を守り、ぐいぐい引っ張ってくれた。選手をやめて20年たっても、こういう仕事ができるのはやっぱり両親のおかげです」
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