世界最古の神殿、新たな保護プロジェクト
世界最古の宗教施設とされるトルコのギョベックリ・テペ遺跡で、遺跡を広く知ってもらい、保護しようという新たなプロジェクトが立ち上がろうとしている。2016年の世界経済フォーラムにおいて、トルコの複合企業ドギュスは米ナショナル ジオグラフィック協会と提携し、今後20年にわたり1500万ドルを新たなプロジェクトに提供すると発表した。シリアの混乱を受けて減少した観光客を取り戻す呼び水となるだろうか。
発掘が始まった1995年からというもの、トルコの南東部に位置するギョベックリ・テペ遺跡は、文明の起源について考古学界の考え方を一変させてしまった。精巧な模様が彫られた巨石や独特のT字形をした石柱のある円形の建造物は、まだ農耕が始まっていない1万2000年以上前のものだったからだ。
農耕が文明の起源だという考え方は、根底から覆された。従来の考え方は、狩猟採集民が定住するようになり、農耕によって余剰食物ができたおかげで、複雑な社会ができあがったというものだった。
これに対し、ドイツの考古学者で遺跡の発掘を主導してきたクラウス・シュミット氏は、2014年に他界する以前、逆の可能性を主張していた。つまり、神殿の建造に多くの労働力が必要になったため、労働者のための食料や飲料を確保する手段として、農耕に踏み切る必要が生じたというのである。
世界最古の宗教施設か?
ギョベックリ・テペの出土品は、文明が農耕の発明のきっかけになったとするシュミット氏の説を裏づけるものだった。各円形遺跡の中心には背の高いT字形石柱が2本立ち、図案化された腕や手、腰布が彫られていた。最大の石柱は重さが16トン以上になる。巨石に彫刻を施したり、近くの採石場から運んだりするのは、とてつもない大仕事なので、数百人の労働力と、彼らに食べさせる食料が必要だったはずだ。
ただしギョベックリ・テペからは定住の跡が見つかっていない。最近は、この場所は地域の集会場所だったのではないかと考えられている。遺跡は乾いた丘の頂に立ち、周囲の山々と南に広がる平野を一望できる。
「当時、人々は定期的に異なる遺伝子集団が交流をもったり、情報交換したりするために、集まる必要があったのでしょう」そう語るのは、ドイツ考古学研究所の考古学者、イェンス・ノトロフ氏だ。「たまたま集まったということはありません」
実際、ギョベックリ・テペより規模の小さな円形遺跡が、約200キロ離れた居住地跡で見つかっている。言うなれば、ギョベックリ・テペは大聖堂で、それ以外は地元の教会だったのだ。狩猟採集民は遠くからやって来て落ち合い、祈りを捧げ、労働力を提供して新たな建造物を建て、ごちそうを振る舞って自分たちの豊かさを示したのだろう。
「ごちそうというのは、労働力を集めるために、いちばん簡単な誘い文句です」と、ノトロフ氏。
丘をさらに掘り進めていくと、ごちそうが振る舞われたことを示す遺物が他にも見つかった。円形施設は使ううちに、砂や石や動物の骨でいっぱいになっていった。何世紀かたつと、古い円形施設ごと土で埋め、その上に新しい円形施設を建てた。そうやって埋められてきた堆積物には大量の砕けた動物の骨が含まれ、ガゼルや絶滅した野生のウシが見つかっている。さらに、古代のビールが150リットルは入りそうな、巨大な石の器も発掘された。
観光バスと難民
ギョベックリ・テペは今、転換点にある。遺跡が世界的に有名になるにつれ、観光客が大挙して押しよせるようになった。ほんの数年前まで、舗装されていない道を車に揺られて丘の上へ向かうしかなかったが、今では日に数回やって来る観光バスから、数百人の観光客が降りてくる。
トルコ観光文化省も、ギョベックリ・テペ観光を熱心に後押ししている。土産物屋や駐車場もでき、シャンルウルファの町の近くには、つい最近、トルコ最大の考古学博物館がオープンした。
だがシリア情勢が悪化するにつれて観光客は減り、観光拠点であるシャンルウルファの町は難民の通過点となっているという。地元企業が遺跡保護や新たな施設を援助すると発表したことは、地元にとって明るいニュースとなるはずだ。
(文 Wendy Koch、訳 倉田真木、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2016年1月25日付]
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