鹿児島、昆布で結ぶ北海道との縁 物産展が大盛況
薩摩藩が貿易経路、開拓でもつながり
2015年11月5日。山形屋の「北海道の物産と観光展」の初日は開店前に約900人が並んだ。お目当てはカニやイクラなど水産物、乳製品、スイーツなどだ。メーン会場である1号館6階の催事場を中心に約2400品目がそろい、11月24日の最終日まで老若男女で大いににぎわった。
同社は1751年創業。北海道物産展は52回目だ。メーン会場での販売額は20日間で約9億8000万円。高橋はるみ北海道知事が来店し過去最高となった13年に匹敵する規模だった。主催者に名を連ねる北海道貿易物産振興会(札幌市)によると、同社は今年度も16年連続で北海道物産展の売上高日本一になる可能性が高い。「鹿児島の秋の風物詩」と形容しても言い過ぎではないだろう。
山形屋のバイヤーは道内を毎年2000キロメートル以上車で走り、鹿児島の消費者に合った商品を探す。水産加工品を県民が好む味付けにするなど工夫も凝らす。野菜の加工品などを扱うキョクトー(北海道旭川市)の吉田勝昭会長は出展回数が20回超のベテラン。「山形屋の催事は別格だ」と話す。
水産物はおしなべて人気だが、鹿児島の消費者にとりわけ身近な食材を挙げるとすれば昆布だろう。だしを取るだけでなく、メカジキやサバなどを巻いて煮て、日常的に食べる習慣がある。北海道物産展に約30年関わってきた山形屋の日高博昭・食品統括部長は「幅が広い歯舞産の『棹前(さおまえ)昆布』には鹿児島昆布という別名もあるほどだ」と言う。
それもそのはず。「鹿児島の人たちは江戸時代から北海道の昆布を口にしていたようだ」。山形屋近くの海産物店、中原商店の3代目、中原時宏氏が教えてくれた。中原氏が郷土の食文化を調べたところ、富山の売薬商人が薩摩に昆布を持ち込んだらしいということが分かった。棹前昆布は同店でも定番商品だ。
19世紀前半に薩摩藩の財政再建を託された家老、調所(ずしょ)広郷は沖縄(琉球)経由で中国(清)との貿易を盛んに進めた。主要商材の一つが昆布。煎ナマコなどの俵物と並んで輸出された。西郷南洲顕彰館(鹿児島市)の徳永和喜館長によると「昆布の流れを追うと北海道の松前から薩摩、琉球、中国という流通経路があったことが浮き彫りになる。背後に調所による琉球口貿易拡大策があった」。当時有数の海商、浜崎太平次が調所の改革を支えた。
第11代藩主、島津斉彬の存在も大きい。斉彬は蝦夷地(えぞち)と呼んだ当時の北海道を「日本の宝蔵」と見て、開拓の重要性を説いた。斉彬は清が英国に負けたアヘン戦争(1840~42年)を機に富国強兵や殖産興業を強く意識した。幕府にも蝦夷地開拓を進言したが実現しなかった。
明治時代になると、斉彬の遺志を継ぐように多くの鹿児島人が北海道開拓に力を尽くした。北海道開拓使長官を務めた黒田清隆はその筆頭格だ。北海道を開拓して士族を救済し、ロシア侵攻にも備えるための屯田兵制度は武士が農耕をしながら地域を守る薩摩藩の郷士制度を手本に黒田が実行したものとされる。
黒田が開拓使官有物を払い下げようとした関西貿易商会は斉彬がその才能を高く評価した五代友厚らが設立した。五代も登場するNHK連続テレビ小説「あさが来た」の時代考証を担当している鹿児島県立図書館の原口泉館長(志学館大学教授)が指摘する。「五代は日本の生きる道を外国貿易と条約改正であるとみて、北海道の資源を生かすことを考えたはずだ」
ほかにも▼北海道の守りと開拓に一生をささげた永山武四郎▼札幌農学校(現・北海道大学)の初代校長、調所広丈▼日本初の官営ビール工場を札幌に造った村橋久成――らの名前が挙がる。原口館長は「北海道と鹿児島の縁は挙げればキリがないほどで、全国で一番深いともいえる。鹿児島人の北海道好きは意外な現象ではない」と総括する。
(鹿児島支局長 松尾哲司)
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