渡名喜島 人口400人の島が物語る沖縄の歴史
とにかく小さい島
きっかけは知人の薦めで昨年、久米島を訪れたことだ。離島の魅力にはまった記者は今年も夏休みを久米島で過ごすことに決めた。計画を立てているとき、知人との「島談議」を思い出した。
「次は渡名喜島も行ってみるといいよ。のんびりできるから」
渡名喜島は那覇市・泊港と久米島・兼城港を結ぶフェリーが寄港する以外、ほかの島と結ぶ交通手段がない。泊港からフェリーに揺られて約2時間、だんだんと渡名喜島が見えてくる。しかしいつまでたっても目の前に見える島は小さく、近づいている気がしない。
渡名喜漁港に到着し、上陸してもやはり小さい。面積は約3.6平方キロメートル。東京ドーム77個分だ。島のほとんどは山ではないか、というほどに目の前に広がる集落はさらに小さい。
渡名喜島は5000年前までは2つの島に分かれていたが周りで徐々にサンゴ礁が発達し、4000年前には海面低下が起きた。島の間は海からの波が遮られ、3500年前頃に砂州ができ、2つの島は1つにつながった。砂州を中心に集落が形成され現在に至る。
「重要伝統的建造物群保存地区」に指定
集落は北部の西森、南部の義中山や大岳、大本田といった山々にはさまれている。碁盤の目状に伸びる道路は白砂でできており、ほとんど舗装されていない。道幅は狭く、車で離合するのは困難だが、集落を横切る村道1号線の長さは600メートルほど。集落を巡るだけなら徒歩や自転車で十分だ。
道路沿いにはフクギの木や石垣で囲まれた家屋が道路より少し低い位置に建てられている。フクギの木や石垣の防風・防潮効果を最大化するためだ。
屋根は赤瓦でできている。赤瓦同士は漆喰(しっくい)でつなぎ留められており、強風にも耐えられる構造だ。赤瓦は吸水性・通気性が高いといわれており、高温多湿の沖縄の家屋に適している。
屋敷に入ろうとすると白い壁が立ちはだかる。「ヒンプン」と呼ばれ、魔よけのために置かれているが、外からの目隠し、風よけの役割も果たす。
渡名喜島は第2次世界大戦でも戦火をほとんど浴びず、戦後も観光開発が進まなかったため、大正時代中ごろに形成された伝統的な家屋や町並みがそのまま残る。渡名喜島の集落は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されており、景観保護が進められている。
集落を回るだけなら車はいらないが、山々を含めた島全体を巡るにはやはり車が必要。車をレンタルするか、宿泊する民宿のスタッフに車で案内してもらうのがいいだろう。
民宿のスタッフに車で連れて行ってもらったのが大本田の頂上にある「大本田展望台」だ。展望台から北西の方向に見えるのが渡名喜島が属する沖縄県・渡名喜村を構成するもう一つの島、入砂島。NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」のオープニング映像に登場したことでも有名な、面積がわずか0.26平方キロメートルの小さな無人島だ。
ところが、入砂島は在日米空軍の訓練場(出砂島射爆撃場)になっており、月曜から土曜まで、日々訓練が行われている。訓練が行われない日曜には豊かな漁場が広がる周辺海域で漁が行われるものの、普段は立ち入り禁止だ。小さな島にも在日米軍の問題が見え隠れしている。
緩やかな時の流れを楽しむ
集落に戻り散歩に繰り出した。時々、地元の住民とすれ違うと「こんにちは」と声をかけてくれる。渡名喜島に1人しかいない警察官に出くわすと「何もないでしょ?」と笑いながら話しかけてくれた。住民同士は大体が顔見知りだという。筆者が観光客だということもわかっているはずだが、分け隔てなく話しかけてくれる。
渡名喜島は昔から「戸無き島」とも呼ばれるほど治安のいい島として知られており、昨年、渡名喜島で刑法犯は1件も起きていない。人と人とのつながりを大切にしている島だからこそ、平和が保たれているのだろう。
島の子どもたちもあまりにも元気に声をかけてくれるので、こちらが慌ててしまうほど。子どもは中学生まで27人。幼稚園と小・中学校が併設された施設があるものの、高校はない。ほとんどが中学を卒業すると渡名喜島をいったん離れ、沖縄本島に進学・就職していく。
沖縄独自の「地割制度」
集落の北側の小高い丘の上にある「里御嶽(さとうたき)」に向かった。14~15世紀頃のグスク時代の遺跡で、当時の生活を思わせる建物や土器などが発掘されている。
里御嶽から集落を見下ろすと山麓を中心に農地が広がっているのがわかる。農業は島の産業の柱の一つ。39戸がもちきびや島ニンジン、島らっきょうを中心に生産している。特にもちきびは渡名喜ブランドとして定評を得ており、「アンマー(お母さん)」たちが作るもちきびを使ったお菓子は土産に最適だ。
山麓の農地は細長く区分けされているように見える。20世紀初頭まで続いた「地割制度」と呼ばれる沖縄独自の土地制度の名残だ。
保水・保肥力の弱い土壌を持ち、台風などの災害に頻繁に見舞われてきた沖縄では、長い間農業が発達せず、農民一人ひとりの営農力が弱かった。そこで農民全体で農地を保有、均等に配分して営農し、貢租を全体で負担して残りを均等に配分する地割制度が生まれた。
地割制度は1903年までに消滅した。渡名喜島ではその後も、細長く区分けされた農地を個人が所有し、自給のための農業を行ってきた。第2次世界大戦で戦火を浴びなかったのに加え、85年に「農業振興地域」の指定を受けるまで、土地基盤整備が全く行われなかった。
農業振興地域に指定されてからは、区画整理を行い農地を集約、農道を整備して農業の機械化が進められた。当時の農地の姿はだいぶ崩れてしまったが、一部では地割制度下の農地が今も保存されている。
地元食材を食す
島内を回っているとあっという間に日が暮れてきた。フットライトに照らされる道を歩き、3軒しかない食堂の一つ、「ふくぎ食堂」へと向かった。民宿「赤瓦の宿 ふくぎ屋」の食事場として使われているほか、観光客・地元住民にとって貴重な食堂・居酒屋としても人気だ。
記者は「ふくぎ屋」に宿泊していたため、食堂に行くとすぐに定食が出てきた。「ふくぎ屋」は沖縄の伝統的な家屋を宿として提供している。宿泊料金は1泊2食付きで1人7000円(1人での宿泊の場合は9000円)。古民家への宿泊を体験できて、このボリュームの食事が付いていれば手ごろな価格といえるだろう。
食事の味は……。渡名喜島で水揚げされた魚介類は南の海で捕れたとは思えない身の締まりでとてもおいしい。島で生産された食材を使ったソーキ(豚のあばら肉)の煮付けやゴーヤチャンプルー、にゅうめんなどは沖縄らしい優しい味わいだ。
特筆すべきは一見地味にも見える、島名産のもちきびを白米に混ぜ炊き込んだ写真左下のもちきびご飯だ。炊く前のもちきびは小さな粒で、かむとプチプチしていそうな見た目だが、食べてみるともちもちした食感に驚く。
口の中には自然な甘みが広がり、鼻に素朴な香りが抜ける。見た目も白米の色にもちきびの黄色がとても映えてきれいだ。地産地消をモットーにした食事はあっという間に胃に吸い込まれていった。
リゾート開発がされているわけでもなく、観光資源が豊富なわけでもない。「のんびりできる」と薦められた渡名喜島は、もはや「のんびりせざるを得ない」島という印象だ。
「ふくぎ屋」を運営する福木島となき(沖縄・渡名喜村)の代表取締役、南風原(はえばる)豊さん(56)によると、観光客は、夏はファミリーが中心なのに対し、春は一人が多いそうだ。南風原さんは「都会の忙しい生活に疲れた方がゆったりとした時間の中でリラックスして帰っていく」と話す。
オフシーズンでも漁や釣り、農産物の収穫などを通して島の生活を体験でき、十分に「のんびり」を楽しめる。たまには仕事のことを忘れて、渡名喜島で沖縄の歴史を感じながらゆったりとリフレッシュしてみてはいかがだろうか。
(電子編集部 高尾泰朗)
那覇市・泊港からフェリーで1時間45分~2時間15分
沖縄県久米島・兼城港からフェリーで1時間20分~1時間30分。フェリーは1日上下1便(4~10月の金曜に限り、渡名喜島から泊港に向かう便が2便となり日帰りが可能)
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