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伊藤恵が弾くシューベルト 最後の3つのピアノソナタ集 作曲家に寄り添う「正統派」という個性

2015/5/13

 ピアニストの伊藤恵が2008年から8年連続で開いた「新・春をはこぶコンサート」。最終回の今年は初回と同じシューベルト最晩年の3つのピアノソナタを選んだ。07年までのシューマンのピアノ全曲録音に続いて取り組んだシューベルト演奏の集大成である。31歳で逝った青年作曲家に崇敬の念をもって寄り添い、その精神の深みを聞き取っていくような演奏だ。長大なソナタの全編にわたって白鳥の歌が宿り、天上の響きが聞こえてくる。

シューベルト最晩年の三大ピアノソナタを弾く伊藤恵(4月29日、東京都千代田区の紀尾井ホール)=写真 武藤 章、提供 KAJIMOTO

 4月29日の祝日、紀尾井ホール(東京・千代田)では伊藤恵の「新・春をはこぶコンサート」の最終回を聴こうと、当日券を求める長い行列ができた。午後2時からの本公演は満席となったため、入場できなかった知人や教え子ら向けに急きょ同日午後6時、非公開の追加の演奏会を開く異例の事態となった。伊藤恵といえばシューマン、そしてシューベルト。世界的ピアニストがこぞって弾くわけでもないこの二大作曲家の作品演奏の第一人者として、根強い人気を示す盛況ぶりだ。しかも休憩時間が30分程度しかなかったはずの同日2つの演奏会を、全く変わらない緊張感と集中力で弾き通してしまうプロのすごみも見せつけた。

 伊藤は1983年、難関のミュンヘン国際コンクール・ピアノ部門で日本人として初優勝した。その時に弾いたのがシューベルト最晩年の三大ソナタの1つ、「ピアノソナタ第19番ハ短調D958」だった。最も自信と思い入れのある作品に違いない。しかしそこは世界的ピアニストに不釣り合いなほど謙虚な人。伊藤は欧州留学中、アルフレート・ブレンデルの演奏会でシューベルトの最後の3つのソナタを聴いた。「ブレンデルが弾くシューベルトには、人間が持つ地獄があった。その地獄に引き込まれた。これまで自分がやってきたことは単にピアノを上手に弾くための子供の遊びにすぎないと痛感した」と言う。「ブレンデルほどの残酷な地獄を聴かせるのは難しい。しかも彼の演奏は逆の天国的な響きも併せ持っていた」。あまりに衝撃が大きかったため、「その後20年近くシューベルトを封印した。その間に取り組んだのがシューマンのピアノ作品の全曲録音だったのです」。

 だがシューベルトへの憧れは拭えなかった。「シューマンを弾きながら、シューベルトとはどんな人だったのかと思いを巡らし、憧れの気持ちが募った」と話す。「最後の3つのソナタは全部が『さよなら』と言っているような曲。音楽の中には出会いもあれば失恋もある。女性と結ばれることもなく、独身のまま31歳という短い生涯を閉じた人。かわいそう。母性愛にも似たものを感じてしまうのでしょう」とシューベルト青年への思いを語り始めたら止まらない。

伊藤恵が8年連続で開いてきた「新・春をはこぶコンサート」最終回を飾るシューベルト最後の三大ピアノソナタ演奏(4月29日、紀尾井ホール)=写真 武藤 章、提供 KAJIMOTO

 この日はミュンヘン国際コンクール優勝時の演目「第19番」から始まった。小柄な体が飛び上がるほどの激しい弾き方で第1楽章が始まった。ベートーベン風の激情の音楽を一瞬思わせるが、荒々しい勇壮な気分とは無縁だ。たそがれの淡く柔らかい光によって激しい響きを包み込んだような、幻想的な音色なのだ。慈しむように弾く弱音の繊細さが印象的。思い切った強弱の付け方なのに全体が滑らかに流れていく。

 伊藤が尊敬するブレンデルの演奏、1972年ザルツブルクでの録音の「第19番」よりも緩やかな遅いテンポだ。「シューベルトの永遠性、永遠の美」を表現しようとするには、これほどの緩やかな流れが必要なのだろう。ブレンデルの速く激しい曲の運びからは、確かにシューベルトの内面の地獄が聞こえてきそうだ。一方で、伊藤の緩やかな運びは、シューベルトに優しく寄り添って話を聞いてあげている風情がある。

 その優しさは第2楽章でも天国的な美しい響きとなって出てくる。伊藤は1年前の「新・春をはこぶコンサート」でシューベルトの「ピアノソナタ第18番ト長調D894 『幻想』」を弾いた後、「のちのブルックナーを思わせる沈黙(休止)がある」と言っていた。この「第19番」の第2楽章にも随所に沈黙が挟まれるが、静寂の空間性を伴う息の長い旋律が一筆書きのように歌われていく。中間部は交響的盛り上がりを作る。この「アダージョ」の緩徐楽章も管弦楽で演奏されたらブルックナーの交響曲になるかもしれない、と思わせるスケールの大きさだった。

 一転して第3楽章は歯切れの良い音色で小粒な、小品の風情を醸し出す。楽しげではあるが、孤独を感じさせるシューベルト独特の、ちっぽけな歌を熟知した演奏だ。さらに第4楽章になると、短調のリズミカルな旋律が孤独感を一層浮き彫りにする。途中で不意に登場する奇想曲風で行進曲風でもある気取った旋律が、さすらい人の孤独な歩みを思い起こさせる。

 伊藤は大変な読書家で、純文学の愛読書を挙げたら切りがないほどの人だ。堀辰雄や福永武彦ら日本の作家の作品に加えて、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンなどのドイツ文学も当然話題に挙がる。ドイツ=オーストリア音楽を得意とする正統派ピアニストといわれてきただけに、ドイツ文学からもシューベルトにアプローチしてきたのだろう。

1983年ミュンヘン国際コンクール優勝時に弾いた「ピアノソナタ第19番」を含む伊藤恵のシューベルト最後の三大ソナタ演奏(4月29日、紀尾井ホール)=写真 武藤 章、提供 KAJIMOTO

 シューベルトの音楽について「さすらうことの孤独、さまよってついにここに来たという思いが聞こえてくる」と指摘する。そんな言葉を思い出しながら「第19番」の第4楽章を聴いていると、ヘッセの小説「クヌルプ」が思い浮かんできた。行く先々の小さな町や村の人々に愛されながらも、定住場所を持たないクヌルプ。恋に破れ、天涯孤独で放浪を続け、最期は積雪の中に倒れて神の声を聞く。シューベルトが生きた時代から100年近くたって書かれた小説ながら、シューベルトの孤独の世界になんと近いことか。現代社会から見れば青臭い青春小説にすぎないのかもしれないが、シューベルト作品の演奏にはこの青臭さが実は決定的に重要と思われる。

 演奏時間が40分を超える長大な「ピアノソナタ第20番イ長調D959」でも、伊藤の演奏は冗長性とは無縁だ。つまらなかったり退屈だったりする部分がどこにもない。必要だからこそこれだけ長い曲になったのだと納得させる演奏だ。

 第1楽章の出だしは華麗な歌い回しで盛り上げるが、弱音の繊細な表現力によってすぐに幻想的な世界へと聴き手を引き込む。第2楽章の哀愁の歌はしみじみとした風情で秀逸だ。その中間部で孤独の感情が一気に噴出する。悲痛な叫びなのに荒々しくはない。再び哀愁の歌に戻った時には、作曲家を慰めるような慈しみのある音色を生み出していた。

 ショパン風の短い第3楽章を気品のある遊び心で弾いた後、憧れに満ちたほの明るい旋律の第4楽章が始まった。ベートーベンの「第九」の「歓喜の歌」にも似た曲調だが、もっと控えめで個人的、夢想的な、優しさに包まれたメロディーだ。伊藤がオーストリアのザルツブルク・モーツァルテウム大学とドイツのハノーファー音楽大学で師事したピアニストのハンス・ライグラフは、作品の性格にふさわしい音質を言葉で徹底的に考えさせたという。そして最終的にはピアノで「この世のものとは思えない素晴らしい響きを出すこと、音色に行き着いた」と振り返る。この日、特に2回目の追加公演の方で、この第4楽章の旋律はまさに1音ごとの音色にこだわった憧憬の響きとなった。

 2作品の演奏が終わったところで伊藤が舞台上で挨拶し、「シューベルトのこんな素晴らしい作品を弾けるということ自体を幸せだと思いなさいとライグラフ先生に言われた」というエピソードを語った。

 最後の「ピアノソナタ第21番変ロ長調D960」はシューベルトの最高傑作というべき「遺作ソナタ」だ。演奏時間は約45分と非常に長い。のちのブルックナー風の「休止」が一段と多用され、遠雷のように低音部を弱くがらがら鳴らす箇所も出てくるなど、大きな枠組みの中で悠久の自然の響きを鳴らしていく。ピアノによる壮大な交響曲だ。分散和音の1音たりとも作曲家の気持ちを逃さない。20分を超す第1楽章を憧れと夢のトワイライトで包み込むかのようだ。

 第2楽章も歌が情念的になりすぎないところがいい。奇をてらわず、演奏家の個性を主張せず、ひたすら作曲家に寄り添って自然体で弾く。伊藤の演奏は正統的で面白くないとの意見もたまに聞く。しかしそれは個性が足りないということでは全くない。ブルックナーの交響曲を得意とする指揮者と同様、奥手で繊細な神経の持ち主である作曲家の聞き役に徹してこそ、作品の本当の声が聞こえてくるのではなかろうか。献身的に作曲家に仕える能力自体が、演奏家にとっては貴重な個性だ。

 同日2公演を通じて、伊藤の横には常に補助席があった。譜めくり担当のための椅子なのだが、終始誰も座らなかった。全曲を通じて伊藤が暗譜で演奏したためだ。「この椅子は片付け忘れただけで、偶然そのまま置かれていたもの」と彼女は説明した。しかし暗譜であってもそこにはシューベルトが座っていて、作曲家の楽譜が常に目の前にあることを意識するためだったのではないか。目に見えない作曲家と楽譜がピアニストに啓示を与える。

シューベルトの「ピアノソナタ第18番」「同21番」を収めた伊藤恵の最新CD「シューベルト:ピアノ作品集6」(フォンテック)
シューベルトの「ピアノソナタ第19番」「同13番」を収めた伊藤恵のCD「シューベルト:ピアノ作品集1」(フォンテック)

シューベルトの「ピアノソナタ第20番」「同4番」などを収めた伊藤恵のCD「シューベルト:ピアノ作品集2」(フォンテック)
アルフレート・ブレンデルのシューベルト「最後の3つのピアノソナタ集」の2枚組CD(ユニバーサル)

 円熟の域に達した伊藤恵のシューベルト。演奏会シリーズは終わったが、「まだまだ修業の身。シューベルトのようにさすらいの旅を続けます」。この謙虚さが新たな啓示をもたらすだろう。

(文化部 池上輝彦)

シューベルト:ピアノ作品集6

演奏者:伊藤恵
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シューベルト:ピアノ作品集1

演奏者:伊藤恵
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シューベルト:ピアノ作品集2

演奏者:伊藤恵
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