手話カフェが人気、障害者雇用で働きがい確保へ
「聞こえない」ことが前提のカフェ
本郷三丁目駅(東京都文京区)にある、一見、普通のスープカフェ。入ってみると、通常、外食のお店で聞こえてくる「いらっしゃいませ!」という店員の声は聞こえてこない。代わりに、店内を見渡すと、店員の柔らかい笑顔と席を促すジェスチャーが返ってくる。
客はメニューを指さして注文
この店、「Sign with me」の公用語は日本手話。オーナーも店員も耳が聞こえない「ろう者」が中心のカフェだ。噂を聞きつけたろう者が全国から訪れるほか、地元の人たちや東大生にも愛されている。
ふらりと立ち寄った客の中にはカフェの趣旨を知らない人も多い。耳が聞こえる「聴者」は一瞬戸惑うものの、すぐにメニューを指さして注文すれば何の支障もないことに気が付く。よく来るという東京大学大学院生の女性(29)は「スープがおいしい。店員の大きな声がなく、落ち着いた雰囲気も気に入っている」と話す。
聴者の客も慣れてくると、店員の身振りで席を融通しあったり、店舗内のホワイトボードへの書き込みやジェスチャーで、それぞれの方法で店員に「ごちそうさま」「おいしかった」を伝えたりと、聞こえないことが前提の環境に合わせて行動をしはじめる。ここでは、聞こえないことはもはや障害ではない。
仕事に対する誇りを
障害者の法定雇用率は2013年度から2.0%に上がった。しかし、達成していない企業も多いうえ、あくまでも福祉として実施している企業も多い。誰にでもできる雑用しか任せてもらえなかったり、意思決定に参画できなかったりするために、仕事に対する誇りを持てない障害者は多い。
Sign with meの店舗前と柳オーナー
自身もろう者で、Sign with meのオーナー柳匡裕さん(42)は、前職で障害者の就労支援を手掛けているとき、障害の種類によって定着しやすい職場が異なることに気づいたという。「多くの障害では、勤務時間に融通が効く、福利厚生が充実しているなどの制度的・物理的な支援が効果的。ただ、ろう者については、働きやすさを売りにしている職場よりも、自分に裁量権があるような働き方ができるほうが定着率は高かった」(柳さん)
多くの職場で前提となっているコミュニケーション方法は、口頭で会話するというもの。目が見えない、四肢が動かしづらいなど、ほかの障害であれば大抵は口頭でのコミュニケーション方法が共有できるが、ろう者は意見を伝えにくく、ディスカッションに参加ができない。決定されたことの結果しか伝えられずに、参画意識が薄くなり、離職が多くなるという。
そこで、2011年に紆余曲折(うよきょくせつ)を経て開店することになったSign with meは、「1人1人が主役で、オーナーシップという意識を持ってもらう」ことに力を入れている。柳さんは「これまでの障害者雇用や福祉政策は、持つ者が持たざる者に対して援助をすることが中心だった。障害のある側も福祉で助けてもらうことに慣れてしまっている面がある」と話す。
当然、障害の種類や程度によってはまた別の働き方や工夫が望まれる。障害者の中で雇用されやすい人とされにくい人が分かれてしまう問題もあり、福祉が必要な部分は残る。でも、意欲も能力もある人まで、発揮する場が極めて少ないというのが現状だ。「この店では、自分の足で立ち上がりたい人向けに、当事者による当事者の雇用創出をしたかった」と柳さん。
柳さんにフランチャイズ店舗を任せたスープアンドイノベーションの室賀康社長(36)は「頭脳明晰な方が、何らかの障害があるという理由だけで、雑用しかやらせてもらえないというのはもったいない」と、全面的に運営をオーナーに託す。「お情けで買ってもらうのではない店舗を作りたかった。Sign with meは助成金頼みの運営ならやらない方針」(室賀社長)。結果的に助成金がなくても採算を確保しており、ほかの店舗と遜色ない利益を上げている。
成功事例が広がるには課題も
障害者自身に裁量権を任せることで活躍してもらうSign with meの成功事例が、社会的に広がるには、課題も多い。室賀社長は「文教地区の本郷三丁目では成功したものの、一つの都市に何か所も同じような店舗ができるとは想定しにくい」という。
柳さんは、既存の福祉政策や医療・教育の方向性が「持つ者」に合わせるような方向に向かっていることで、障害者自身の意識や能力が育っていない面もあると見ている。たとえば、ろう者の場合、「そもそも母語である手話から、口話法に"矯正"していくような教育が行われることが多く、人に想いを伝える力が弱い」(柳さん)。リーダーシップを発揮していく障害者が増えるには、教育段階から変えていく必要もある。
店舗は若い女性などでにぎわう
ただ、それでも柳さんは、ビジネスを通じてSign with meの取り組みを発信していく意義は大きいと考える。ろう者にとっての最大の障害は、「聞こえることが正義」という価値の押しつけだという。そうではない空間を作り、ろう者にも聴者にも体験してもらうこと自体が店の存在意義になっている。
店舗にはお昼どきを過ぎても客足が途絶えず、インタビューする場所が確保できないくらいの満席状態が続いていた。
ダイバーシティーを標榜する企業が増える中、いかに多様な軸で多様な能力を生かすことができるか。援助するという姿勢ではなく、ときに当事者に意思決定を任せながら利益を達成していくことは、高齢者雇用や女性雇用にも共通する課題といえるのではないか。
(ライター 中野円佳)