ライフコラム

法廷ものがたり

アンゴラ内戦の闘士、はるか日本で難民申請

2015/3/18

 裁判記録をとじた厚いファイルを開き、埋もれた事案に目を向けてみれば、当事者たちの人生や複雑な現代社会の断片が浮かび上がってくる。裁判担当記者の心のアンテナに触れた無名の物語を伝える。

 アンゴラの場所を世界地図ですぐに示せる人は日本では多くないだろう。アフリカ南西部の同国では、30年近く泥沼の内戦が続き、400万人が避難を余儀なくされた。命からがら国を脱出した反政府組織の男性(51)は、たどり着いた日本で難民認定を申請したが、認められなかった。「帰国したら殺される」。追い込まれた男性は裁判に未来を賭けた。

 男性が生まれたのは1963年。はるか日本で翌年に控えた東京オリンピックの準備が佳境を迎えていたころ、アンゴラでは宗主国ポルトガルからの独立戦争の火が燃えさかっていた。男性の故郷はアンゴラ北部の飛び地カビンダ。63年はその地に民族組織「カビンダ解放戦線」(FLEC)が結成された年でもある。

 食料雑貨店10店舗を経営していた男性の父は、FLECに多額の経済支援をする地域の有力者だった。男性は中学校を卒業すると父の仕事を手伝いながら、若者にFLECを広める活動を始めた。

 75年にアンゴラがポルトガルからの独立を果たすと、今度は飛び地のカビンダでアンゴラからの独立機運が高まった。アンゴラは国内総生産の半分を石油に依存しており、カビンダはその主要な産地。激しい内戦の中で、FLECはアンゴラ治安当局から目を付けられる存在になっていく。

■父は獄中死、母も心労で亡くなる

 90年、男性の父は突然身柄を拘束された。正式な裁判は開かれないまま収監され、4年後に獄中死。心労から母もその間に亡くなった。両親を失った男性はコンピューター会社を経営しながら、ますますFLECの活動に深入りしていった。

 地区責任者を務めていた男性は一貫して武装活動に反対の立場で、「政治活動によってカビンダの独立を勝ち取るべきだ」と訴えていた。そうした姿勢を武闘派のメンバーは快く思っていなかったことに、男性はやがて気付かされる。

 男性の自宅に3人の警察官が踏み込んできたのは、2009年2月14日の明け方のことだった。男性がFLECのメンバーだという密告が国家犯罪捜査庁に寄せられていた。否認すると身柄を拘束され、警棒で殴られ続けた。メンバーだと認めると「おまえは国家の安全を脅かす分離主義者だ」と告げられ、裁判の手続きもなく刑務所に放り込まれた。

 5日目に初めてトウモロコシの粉と豆の煮込みが与えられ、以後も食事は週に3回程度。ベッドもトイレもない独房で健康は日増しに悪化した。3カ月後に陸軍病院に入院したとき、男性は腸チフスと急性マラリアを患っていた。

 結果的にその入院が男性の未来に光明をもたらした。見舞いを装った知人に連れられ、病院の裏口から逃走。かくまわれた協力者の家で治療を受けながら国外脱出の機会を探った。メンバーが持ってきた旅券には、なぜか日本の査証が張られていた。入管職員に賄賂を渡して国際便の搭乗に成功。ヨハネスブルクとシンガポールを経由して2日後、成田空港にたどり着いた。

 初めて降り立つ東洋の島国。入国審査の列に並び、自分の番が来たとき、男性は来日の目的を「ビジネス」と説明した。しかし、仕事の内容ははっきりせず、ホテルの予約も確認できない。2次的審査に回された段階で「実は仕事ではなく、本国に戻れば迫害を受ける恐れがある」と明かし、保護のための上陸許可を申請した。入国審査官は認めず、出国を命じた。

 「不法上陸」の立場となった男性は法務大臣に難民認定を申請したものの、やはり供述が信用されずに退けられた。国は男性がFLECの正式な名称を知らず、逮捕後の尋問内容の説明も漠然としていると受け止めた。アンゴラのFLECメンバーから電子メールで取り寄せた「FLECの闘士である男性に保護を要請する」との信任状も、FLECの正式名称のスペルがホームページと違っていた。

■「迫害の恐れある」 地裁、難民と判断

 ところが、男性が難民認定を求めて起こした行政訴訟で、東京地裁は国が指摘する不審点を「軽微な誤り」にすぎないとし、「FLECメンバーはアンゴラで迫害を受ける恐れがあった。男性は難民に該当し、迫害の恐れのある国に送還してはならない」とする判決を言い渡した。

 地裁の判断を後押ししたのは、アンゴラ政府の人権侵害に関する世界の共通認識だった。英国国境局や国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」などが繰り返し問題を提起し、米国務省も「アンゴラの収容施設の状況は過酷で生命に危険が及ぶ」と指摘していた。

 国は控訴せず、判決は確定。男性が国を逃れてから5年近くが過ぎていた。「日本で平和に生活したい。将来カビンダが独立すれば、カビンダに帰りたい」。成田に着いた日、入国審査官が聞き取った調書に記された男性の願いの半分はかなえられた。

 残る半分は――。男性が日本に逃れてきた翌10年、急進的なリーダーに率いられたFLECのメンバーがサッカーのアフリカ選手権に出場予定だったトーゴ代表のバスを襲撃、3人を殺害した。分裂、弱体化しながらも存続しているFLECについて、日本の公安調査庁は「国際テロリズム要覧」で国際テロ組織として紹介している。

(社会部 山田薫)

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