歴史的発見相次ぐ 日本人の起源論争にも波及
歴史新発見 沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡
沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡そばの駐車場には、国内最古級とみられる「埋葬人骨」の見学会に参加する車が続々と押し寄せた。冬の野外にもかかわらず、見学者からは高揚した雰囲気が立ちのぼった。
沖縄県立博物館・美術館は昨年12月、サキタリ洞で少なくとも9000年以上前の成人の人骨を発見したと発表した。成人1体の頭部など上半身と、大腿骨や骨盤などがあおむけの姿勢で見つかった。
特徴的なのは、頭、胸、腹、右腕の位置に約30センチ大の石灰岩が置かれていたことと、左手の上腕と前腕の関節がつながったままだったことだ。「たまたま洞穴に入って死んだり、骨が土砂などで流されてきたのではなく、人為的に埋葬された可能性が高い」と山崎真治同博物館・美術館主任は説明する。洞内で行われた見学会では熱心な質疑応答が繰り返された。
サキタリ洞では7層にわたる地層が確認されている。昨年2月に9000年前の土器が上から5層目で発見された。今回はさらに約1メートル掘り進んだ7層目での発見。詳しい分析は今後進められるが、9000年前から大幅に遡る可能性がある。これまでは愛媛県や長野県でみつかった9000~8000年前の埋葬人骨が最古級だった。
同博物館・美術館は遺物の年代決定に放射性炭素年代測定法による誤差を補正する国際的なものさし「IntCal(イントカル)13」を昨年から採用、従来の発表年代を一部修正しているが、サキタリ洞での調査では文字通り歴史を画す発見が相次いでいる。
12年に1万4000年前の人骨と石英製石器がそろって出土した。骨と道具が同時に出土した例としては国内最古になる。昨年2月には約2万3000~2万年前の人骨、国内最古の「貝器」、9000年前の沖縄最古の土器などを発見したことを発表、今回の埋葬人骨と続いた。
サキタリ洞での発見に注目が集まるのは、年代の古さとともに、日本人の起源を巡る研究にも影響があるからだ。というのも、日本人のルーツを考える上で欠かすことができない「港川人」が発見された港川フィッシャー(割れ目)遺跡(八重瀬町)と、サキタリ洞とは約1.5キロの至近距離だからである。
旧石器時代の人骨は国内でほとんど発見されていない。本土は火山灰に覆われた酸性の土壌が多いため骨や有機物が保存されにくいためで、日本最古の人骨は那覇市山下町で見つかった「山下洞穴人」。同博物館・美術館によると、約3万6000年前で、港川人は約2万2000年前と見られている。本土で確実な旧石器人の骨は静岡県浜北市(現浜松市)で出土した「浜北人」(約2万年前)だけとされている。沖縄はサンゴ礁が隆起した石灰岩地帯が多く、風化から免れた。
ただ、見つかったのはいずれも断片的な骨片ばかり。旧石器人でほぼ全身の骨格がそろっているのが唯一港川人で、頭蓋骨はほぼ完全に残っている。男性は身長153センチ。上半身が細いのに対し足の骨は太く、歯はすり減っている。
発見された1970年以降、狭い額や横に張り出したほお骨、幅広の彫りの深い顔立ちなどの類似から「港川人は縄文人の祖先」との考えは長い間当然のこととして受け取られてきた。
現代日本人はどのように形成されたのかを巡り、明治時代に人類学が本格的に輸入されてから多くの論争が繰り広げられた。「置換説」、「変形説」、「混血説」の順で有力な学説は変遷してきた。
置換説は弥生時代以降の渡来民が縄文人をほぼ絶滅し、渡来民の子孫に置き換わったとの説。変形説は縄文人が環境要因の影響で少しずつ身体的に変化していったとし、混血説は渡来民と縄文人が混血していったとの考えだ。1990年代以降で標準的な仮説として広く支持されているのは埴原和郎東大名誉教授(自然人類学)が提唱した「二重構造論」だ。
骨子は日本人には2層性があり、後期旧石器時代に東南アジア方面から祖先集団が来て縄文人になり、弥生時代に北東アジア系が渡来し、混血していき、現在も進行中という内容だ。東南アジア方面から来たというのは港川人が中国南部の柳江人やジャワのワジャク人と似ていることが根拠の一つになっている。
90年代後半から爆発的に進展したDNA研究でも二重構造論は基本的に支持されている。母から子に受け継がれるミトコンドリアDNAを分析すると母系のルーツをたどれるが、現在の人類の共通の祖先は約20万年前にアフリカで誕生、約6万年前にユーラシア大陸をはじめ世界中に拡散したとの考えが支配的だ。
その過程で突然変異によってそれぞれの地域特有のミトコンドリアDNAが生まれた。この違いを比較することで集団の由来や成り立ちが推定できるわけだ。
縄文人のミトコンドリアDNAを調べてみると、大まかにはシベリアなど北方系と、東南アジア系の南方系に起源を持つグループがあることが判明した。渡来系弥生人は中国東北地域や朝鮮半島に多いタイプの割合が高かった。
多数のDNA分析を手掛けてきた国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長(分子人類学)は「これまで縄文人は一様な集団と考えられがちだったが、均一性が成立するのはせいぜい3000年前ぐらいの縄文晩期ごろ。縄文人の起源は大陸の南北の広い地域と考えるのが合理的で、ルーツは想像以上に複雑」と指摘する。
港川人が縄文人の祖先なのかという議論の結論は得られていない。最近の研究では港川人の下顎骨が従来考えられていたより細く、眉間部の盛り上がりなどの特徴が縄文人や現代日本人とかなり違うことがわかってきた。オーストラリア先住民やニューギニア人により近いとの説も出されている。
港川人は日本の旧石器人を具体的に想像する際、手掛かりとなる唯一の存在だった。比較の対象がなかったから孤立していたわけだが、サキタリ洞での一連の発見で「隣人」が見つかった。昨年2月に発表された人骨はまさに同時代人の可能性が高い。この隣人は港川人とどんな関係になるのだろうか。
篠田部長は「今回の発見で歴史の空白を科学的に埋める作業ができる。港川人の性格がより明確になることで、沖縄から本土にかけて日本人の成り立ちを考える参考になる」と意義を強調する。
同博物館・美術館は今後約1年かけ、発見した人骨の年代測定ほか詳細な調査を行う。人骨からのDNA検査も試みる予定だ。
(本田寛成)
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