心に刻む原発事故 チェルノブイリ見学[ナショジオ]
28年前に世界最悪の事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所。2011年、その周辺地域を訪ねる見学ツアーが公に始まった。よりによって福島の原発事故が起きた時期に重なってしまったが、筆者はこのツアーに興味をもち、申し込んだ。約5万人の住民が去っていったプリピャチの街や周辺の集落の現状を見てみたいと思ったのだ。
人の心の奥底には、惨劇が起きた場所を見てみたいという欲求が潜んでいる。火山の噴火にのまれたポンペイ、南北戦争の激戦地アンティータム、強制収容所のアウシュビッツ。いずれも今は不気味な静寂に包まれている。そして21世紀に入った今、私たち人間は原発事故の爪痕に恐れを抱きながらも引きつけられている。
無人の立ち入り禁止区域は動植物の楽園
バスの車中では、ガイドが2日間のツアー中の注意事項をもう一度繰り返した。高濃度の放射性物質を含むキノコ類には触らないこと。戸外で物を食べたりたばこを吸ったりして、放射線を発する物質を体内に取り込まないこと。
ウクライナの首都キエフから100キロほど離れたチェルノブイリ原発周辺の立ち入り禁止区域には、外界から遮断された大自然が広がっていた。事故から28年の間に、ほとんど人の住まなくなった一帯には、バイソンやイノシシ、ヘラジカ、オオカミ、ビーバー、ハヤブサなどの野生動物がすみついている。ゴーストタウンと化したプリピャチでは、人の住まなくなったソ連時代の集合住宅の屋上にタカが巣を作っていた。
ツアーに参加した人々の動機はさまざまだ。私が最も興味をそそられたのは、モスクワから参加したアナという若い女性だった。チェルノブイリを訪れるのは3度目で、年内に予定された5日間のツアーにも既に申し込んだという。「放置され、朽ち果てていく場所に魅力を感じるんです」とアナは言う。
経験積んだスタッフのいない1日遅れのテスト
1986年4月26日、深夜に行われた定期保守点検中に、原発の4号炉を担当するスタッフが、保守管理システムの重要なテストを実施した。このテストは1日遅れで実施されたもので、前日の予定日にはいた経験を積んだスタッフはもういなかった。
テスト開始から40秒ほどの間に、原子炉の出力が急増して過熱状態となった。核燃料集合体の一部が制御不能に陥り、2回の爆発が発生。煙と放射性物質が空高く舞い上がり、数日後には、「フォールアウト」と呼ばれる放射性降下物が欧州のほぼ全域に広がった。
事故の翌朝、チェルノブイリの住民たちはいつも通りに買い物に出かけたり、土曜の午前中の学校の授業を受けたり、公園でピクニックを楽しんだりした。事故発生から36時間がたって、ようやく住民の避難が始められた。住民たちは数日分の食料や日用品を携行し、ペットはその場に残していくよう命じられた。迅速に除染が済めば帰宅できるのだと、住民たちは思い込んでいた。
だが、そうはならなかった。まもなく解体作業員が到着し、建物の解体や表土の埋め戻しを開始した。犬たちは見つかり次第、射殺された。200カ所近い村々から住民が避難することになった。
当初の死亡者数は意外なほど少なかった。爆発事故で3人の作業員が死亡し、それから1年以内に28人が被曝によって亡くなった。だが被曝の影響は、長い時間をかけて表れる。放射性物質に汚染されたミルクや食品を子どもの頃に摂取した約6000人が、これまでに甲状腺がんを発症している。広島と長崎のデータを基に計算すると、がんによる死亡率は被曝していない地域の人たちと比べて数パーセント高くなる可能性がある。高い線量の被曝をした労働者と住民約60万人のうち、数千人が若くして死に至るおそれがある。
原子炉がなくなるのは2065年
事故発生後、破壊された原子炉を封じ込めるために、「石棺」と呼ばれるコンクリートと鉄筋でできた建造物が急きょ建造された。
その後、石棺が老朽化すると、「新安全閉じ込め施設」という楽観的な名前の建造物の建設が始まった。レールの上に組み立てられる総重量約3万トンのアーチ型の建造物で、組み立てが終わったらレール上を移動させて原子炉をすっぽり覆うことができるという。完成は2017年の予定。それまでの間は除染作業が続けられる。ウクライナ政府が作成した計画によると、2065年までに原子炉は跡形もなくなるという。まるでSFの世界のような話だ。
(文 ジョージ・ジョンソン、写真 ゲアード・ルドウィッグ)
(日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2014年10月号の記事を基に再構成]
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