CMが結んだ松田優作・翔太親子との縁 マンダム社長
編集委員 小林明
チャールズ・ブロンソン、萩原健一、松田優作、吉田栄作、本木雅弘、木村拓哉……。各時代のビッグタレントを起用してヒットCMを生み出してきたマンダム。そんな数々の制作現場を見守ってきた西村元延社長にとって、CMはトレンドを世の中に発信する手段であり、出演をきっかけに生まれた松田優作さんとの交流など忘れられない様々な思い出が詰まっているという。インタビューの内容を前半・後半に分けて掲載する。
ブロンソンのCMでV字回復、言葉で消費を刺激
――米人気俳優チャールズ・ブロンソンが顎をなでながら「う~ん、マンダム」とつぶやくCMが大ヒットしたのは1970年でした。
「父が経営していたマンダムに私が入社するのが77年ですから、私がまだ学生だったころのCMです。当時、戦前からの主力商品だった固形整髪料『丹頂チック』『丹頂ポマード』が海外の液体整髪料や競合メーカーの男性化粧品にシェアを奪われ、会社の経営は危機的状況に陥っていました。そこで起死回生を狙って発売した新製品『マンダム』を世に広めたのがブロンソンさんのCM。思い切って年商の3分の1もの宣伝・販売促進費を投じたかいもあり、CMも新商品も大当たり。業績がV字回復するきっかけになりました」
――翌年に社名も「マンダム」になります。
「1927年創業の我が社の社名はもともと『金鶴香水』で、『一滴、二滴、三滴、素敵(すてき)』というキャッチコピーで知られていた。これは当時の感覚で考えても、相当にしゃれたCMだったと思います。簡潔な言葉で消費者のイマジネーションをかき立て、会社や商品のイメージを広げ、新たなトレンドを生み出す。そんなCM作りに取り組んできたのが当社の歴史です」
「飲みに行こうか」、食事会後に優作さんから誘い
――数多くの人気タレントをCMに起用してきましたが、最も思い出深いのは誰ですか。
「どなたも印象深いですし、それぞれ大変にお世話になってきましたが、やはり同世代だった松田優作さんとの付き合いが最も深いですね。優作さんは私よりも1学年上。男としての生きざまがじかに伝わってくるような迫力のある人でした。亡くなった後も、次男の松田翔太さんにCMに出演してもらうなど、松田親子には不思議な縁を感じます」
――出会ったきっかけは。
「83年に初めて『ギャツビー』のCMに出演してもらうことになり、関係者と顔合わせの食事会でお会いしたのが最初です。本来、別の役員が出席する予定でしたが、急に都合が悪くなり、その代役で私が出席したんです。たしか場所は銀座の中華レストラン。夜9時半くらいに食事会がお開きになり、帰りのエレベーターの前で優作さんから『西村さん、これから飲みに行こうか』と突然、誘われたんです」
「その日はたまたま優作さんの誕生日(9月21日)で、深夜から始まる仲間内の誕生パーティーが予定されていたようです。でも、パーティーが始まるまでにまだだいぶ時間があるというので、それまでお酒をご一緒することにしました。優作さんが通りに出てタクシーを呼び止め、そのまま一緒に乗り込んで青山のお店まで行ったんです」
香水のうんちく「映画に使えるかも」、コワモテ俳優らと酒席も
――どんな話をしたんですか。
「色々と話をしましたが、特に印象に残っているのが香りについての会話ですね。私はマンダムに入社する前、香料会社に勤めていて多少の専門知識を持っていたので、優作さんにこんなうんちくを披露したんです。夏の暑い晩はお気に入りのオードトワレを1、2滴シーツに振りかけ、ビニール袋に入れて冷蔵庫で冷やしておくと快適ですよと……」
「たとえば帰宅してシャワーを浴び、ベッドに冷やしたシーツを敷いて好きな女性とまどろむとする。香りは時間とともに変化するものです。最初はトップノートでフワリとした軽い香りが降ってくるように漂い、やがて二人の体温の高まりに反応してミドルノートの情熱的な香りに変わる。そして最後のラストノートはムスクのような動物性のセクシーな香りが2人をロマンチックに包み込む」
――様々な妄想が膨らみますね。
「優作さんは私の話に静かに耳を傾けていましたが、『おい、今の話なかなか面白かったよ。もう1回教えてくれないか。映画の場面に使えるかもしれないから……』なんて言いながら、割り箸の袋を取り出し、素早く書き留めていましたね。それ以来、一緒に飲み歩くようになります」
「よく通ったのは四谷の『ホワイト』という伝説的なバー。内田裕也さん、原田芳雄さん、安岡力也さんら、とにかく濃いメンバーが集まっていました。下北沢の『レディジェーン』や新宿の『アンクル』でも飲みましたね。大阪では道頓堀の『イブ』や北新地の『パパヘミングウェイ』。私もお酒は結構飲める方ですが、優作さんにはとてもかないません。いくら飲んでも顔色が少しも変わらないくらいめっぽう強い。特にバーボンがお好きでグイグイと飲んでいました」
CMは「洋画に匹敵する芸術」、監督も自らの指名で
――やはり映画の話題が多かったですか。
「私と飲んでいるときはそんなに多くはありませんでしたが、それでも時々、『邦画は洋画に比べて多額の予算を使わない。俺は何十億円かけてもきちんと回収できるような作品を作ってみたい。おまえがマンダムの社長になったら、映画の制作費を出してくれ』なんて話していました。それからCMのことも表現媒体として高く評価していて、『たった15秒でも多くの予算をかけて作っているから、時間あたりで考えれば洋画に匹敵する立派な芸術作品になる。しかも商品が売れたかどうか、結果もはっきり分かるので面白い』と話していました。そんな熱い思い入れがあるから優作さんのCMは完成度が高いんです。森田芳光さんなど監督まで自分で指名して、連れてきちゃいますからね」
――優作さんのCMは83年から87年まで続きました。
「映画『家族ゲーム』『探偵物語』『それから』、NHKのドラマ『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』などに出演し、役者として新たな境地を切り開いていた時期です。そんな優作さんがある日の夕方、アポ無しで私に会いに大阪本社の受付にいきなり現れたんです。たしか88年だったと思います。CM出演契約がちょうど切れたばかりだったので、『CMをクビになった松田優作です……』なんて冗談めかしながら部屋に入ってきました」
「マイケル・ダグラスさん、高倉健さんらと共演したハリウッド映画『ブラック・レイン』(日本公開89年10月7日)の撮影で大阪に来ていたらしいです。その日は一緒に街へ飲みに繰り出しますが、今から考えると優作さんの体はすでにガンに侵されていて、体調もそれほど良くなかったんじゃないかと思います。でも、そんなそぶりは見せず、いつもとまったく変わらない様子でお酒をグイグイ飲んでいました」
アポ無しで大阪本社に、ハリウッドデビュー直後の訃報に衝撃
――ガンで亡くなったのは89年11月6日。「ブラック・レイン」を公開した直後でしたね。
「その日、私は欧州出張中でした。スイスで起債の手続きを終え、ミラノ経由でパリに入り、ホテルから日本の自宅に電話を入れたら、受話器越しに妻が『今、テレビのテロップで優作さんが亡くなったと流れている』と言ったんです。体調が思わしくないとは聞いていましたが、突然の訃報に驚きました。念願のハリウッドデビューを果たし、俳優としてこれから世界に羽ばたこうという矢先に亡くなってしまったのは残念で仕方ありません。ご本人もさぞかし無念だったと思います」
――2011年からは次男の松田翔太さんをギャツビーのCMに起用します。
「翔太さんのことは子どものころからよく知っています。優作さんが亡くなった時はまだ4歳。有名人の息子なのに少しもチャラチャラしたところがなく、ストイックで研究熱心な男です。映像や制作、演出のテクニックにすごく詳しいし、スキーはプロ級の腕前。語学も堪能。一緒にお酒を飲んだり、和歌山県に釣りに行ったりして仲良くさせてもらっています」
ストイックな翔太さん、優作さんの試作LP盤を贈呈
「翔太さんや母の松田美由紀さんと一緒に大阪の『イブ』に飲みに行ったことがあります。優作さんがまだ近くにいるんじゃないかという懐かしい気持ちになりました。実は私は、歌手としても活躍していた優作さんから試作版の珍しいLP盤をもらっていて、まだ開封していなかった。そのレコードを翔太さんにそのままあげました。優作さんは40歳で若くして天国に逝ってしまった。翔太さんは現在33歳。父親と比べられるのはあまり好きではないでしょうが、果たして、その息子が40歳以降にどんな役者になっていくのか。これからの活躍がとても楽しみです」
(聞き手は日本経済新聞 編集委員 小林明、後半は4月5日に公開)
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