神戸はソース天国 洋食、とろりブレンドで庶民の味に
かんさい食物語
「オリバー」に「プリンセス」、「ブラザー」に「ばら」……。こんなに並ぶと、なんかうきうき。これらはみな神戸のソースだ。
洋食店やお好み焼き店が多い港町の神戸は多彩なソースの食文化を生み出してきた。ソース生産者も多いが、飲食店もブレンドによって独自の味を提供する。まさに「ソース・パラダイス」だ。
港町に届いた異文化の味
そのソースは赤色がかったブラウンで口に含むと酸味が心地よい。
神戸市中央区の繁華街、元町に店を構える老舗「とんかつ武蔵」が長年使っている独自のソースだ。同市にあるオリバーソースが同店用につくるベースのソースと、トマトケチャップなどを炊いてつくる。ベースのソースは香辛料を使っていない。
ヘレ(ヒレ)カツのきめが細かい肉につけて食べると双方の味が引き立った。
「外国人さんが多かったんですわ。昔は米国などの領事館の方が来て白米にソースをかけていた。子どもさんも食べられるよう香辛料を抜き、ケチャップを多めに入れて甘口にしたんです」
2代目の経営者、川飛晴嗣さん(83)はソースの味の由来を太く力強い声で語った。港を通じて早くから海外に開かれた神戸にはかつて多くの領事館が立地したが、ほとんどが大阪に移転したり廃止になったりした。
外国人にも合わせた味は変わらない。「私ぐらいの年の方もここの味が忘れられへんゆうて来られます」と晴嗣さん。今は3代目の満晃さん(53)が引き継いでいる。
そのオリバーソースは隣の兵庫区に本社と工場があったが今はない。阪神大震災の被害を受けて移転し、跡地は公園になっている。そこには「とんかつソースが生まれた場所」という文字が記された説明板がある。
調味料としての幅ひろげた「とろり」
同社は戦後間もない1948年にとろりとしたとんかつソースを売り出した。コーンスターチを使い濃厚さを出した。それ以前は、ソースといえばさらりとしたウスターソースだった。神戸のソース文化の歴史を物語る話だ。
ウスターソースは神戸で早くからつくられてきた。阪神ソース(神戸市)の創業者、安井敬七郎は1885年に東京で起業し、輸入品をベースにしてソースをつくる。さらに英国に渡ってソース会社で指導を受け、神戸市の工場で本格的にソース製造に乗り出した。
5代目社長の安井洋一さん(66)が1924年のパンフレットを見せてくれた。「西洋料理ばかりでなく、日本料理に用ひて亦(また)特種の香味を添へます」とある。異国生まれのソースを拡販しようという当時の並々ならぬ意欲が見える。
神戸市で現在、ソースを生産するのは7事業者とされる。これらの商品を販売するユリヤ(長田区)社長の中島吉隆さん(49)は濃厚なソースの誕生で洋食に加えてお好み焼きなど粉モンでソースの利用が広がり、メーカーも増えたとみる。
中島さんによると、お好み焼きは工場の従業員に手早く済ませられる昼ご飯として食された。神戸では生地の上に肉などの具材を重ね、ひっくり返して両面を焼くのが主流だ。長田区には刻んだそばとご飯を混ぜる「そばめし」を供する店が目立ち「ばらソース」などが使われている。
ブレンドしたソースを使うお好み焼き店もそこかしこにある。中央区の「ふじ」はオリバーの2種類のソースを混ぜる。店主の藤井由紀子さん(82)が「ちょっと薄いなーとか甘いなーとか」味見しながら決めた。魚介類の味を引き立てるという。
ソースメーカーは個性が光る。鉄道高架下で「プリンセスソース」をつくっている平山食品は平山普康さん(47)が一人で製造から販売まで手掛ける。光沢のある美しいソースは「ニンニクとタマネギを多くいれています」。一方、ユリヤは市内のメーカーに製造を委託してプライベートブランド(PB)のソースを発売。中島さんは「下町はこんな味ですよと表現したかった」と笑う。
作家の司馬遼太郎は「ハイカラの伝統」と題した61年のエッセー(「司馬遼太郎が考えたこと1」)で神戸について「たれが、どんな服装で歩いていようと、それは勝手だ、という精神は、日本の社会では驚嘆すべき異風土といえる」と書いた。
早くから外国人が街を闊歩(かっぽ)し、異文化が堰(せき)を切ったように入った神戸は多様性を受け入れる風土が育ったのだろう。多彩なソースもその延長線上にあるとはいえまいか。
かく申す私も神戸市民。いろいろなソースを買い込んでブレンドし、マイソースをつくってみようか。
(伊藤健史)
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