坂本龍一 役作り曲作り、『ラストエンペラー』の狂騒
編集委員 小林明
2014年にみつかった中咽頭がんを克服し、精力的な創作活動に取り組んでいる坂本龍一さん。前回のインタビュー(坂本龍一 『戦メリ』が僕の人生を変えた)に続き、2回目をお届けする。アカデミー賞を受賞した『ラストエンペラー』の秘話、アジア映画の台頭、日本の出版業界をけん引したカリスマ編集者3人との思い出などについて語っている。
ベルトルッチ監督、ボウイとの抱擁シーンを称賛
――『戦メリ』を出品した1983年のカンヌ国際映画祭で大島渚監督から紹介されたベルナルド・ベルトルッチ監督はどんな印象でしたか。
「映画人が集まる大きなパーティー会場で大島監督に引き合わせてもらいました。ベルトルッチ監督は、『戦メリ』で僕とデビッド・ボウイが抱擁したシーンが世界で最も美しいラブシーンの一つだと言ってくれたほか、自分が構想する映画(『ラストエンペラー』)の内容について熱く語っていた。中国でロケをするための交渉がいかに大変かということを、なぜか初対面の僕に対して、立ったままで1時間近くも延々と話している。不思議な気持ちでしたが、その3年後に『ラストエンペラー』(88年日本公開)への出演依頼を受けます」
――最初は映画音楽の打診ではなかったのですね。
「そうです。役者として、満州で陰の実力者だった甘粕正彦・元陸軍大尉を演じるように言われました。映画出演は『戦メリ』に続いて2回目ですので、役作りについても少しは勉強しました。甘粕さんは怖い印象が強いですが、フランスへの留学経験があり、かなりモダンな文化人だったようです。でも台本を読むと切腹で最期を遂げる筋書きになっている。あまりにもステレオタイプなので僕は強硬に抵抗し、『モダンな甘粕が切腹なんてするわけがない。日本人としても恥ずかしい。シナリオを変えないならば降りる』と台本の変更を迫りました」
「監督は随分悩んでいたようですが、結局、拳銃で自殺することで落ち着いた。でも、実際には甘粕さんは服毒自殺したんですけどね……」
甘粕元太尉の切腹シーンは阻止、映画音楽は撮影後に依頼
――満州は戦後文学界の礎を築いたとされる編集者の父、一亀さん(旧河出書房『文藝』編集長で三島由紀夫の『仮面の告白』などを世に送り出す)が学徒出陣で出征していた土地でしたね。
「『ラストエンペラー』では北京の紫禁城を借り切る大がかりなロケをして、さらに大連、長春へと移動しながら撮影したのですが、碁盤の目のような広々とした道路やファシズム建築など都市計画が興味深かった。関東軍将校が遊んだビリヤード道具なども残っていて、タイムスリップした気分になりました。日本にいる父に現地から電話を入れると、『寒いから気を付けろよ』なんて気遣ってくれましたね。父は戦時中、ロシアとの国境沿いにいたことがあるので、感慨深そうでした」
――なぜ映画音楽を担当することになったのですか。
「ベルトルッチ監督と旧知の仲で『荒野の用心棒』などの映画音楽を手がけた作曲家のエンニオ・モリコーネが『自分に音楽をやらせろ』と毎日のように電話で催促していたらしいので、当初は僕に音楽を任せるつもりはなかったと思います。でも撮影が終わって約半年後。仕事でニューヨークにいた僕にプロデューサーのジェレミー・トーマスから電話があり、『1週間で映画音楽を作ってくれ』といきなり言われたので面食らいました。『1週間ではさすがに厳しい。せめて2週間は欲しい』と頼み込み、東京で1週間、ロンドンで1週間という地獄のような強行軍で仕上げました。ほぼ不眠不休でしたが、若かったからできたんだと思います」
受賞後にホテルの部屋に続々、リンチ監督ら映画有名人
――『ラストエンペラー』で見事、日本人初のアカデミー賞作曲賞(87年度)に輝きます。曲作りでは何を心がけたんですか。
「監督は『舞台は中国だが欧州の映画だし、戦前・戦中の話だが現代の話でもある。それを表す音楽にしてほしい』なんて難しいことを注文してきた。でも、悩んでいる暇はないので、とにかく西洋風のオーケストラ音楽に中国的な要素を盛り込み、ファシズムの台頭を感じさせるイメージで曲を作ることにしました。結局、『ラストエンペラー』はアカデミー賞で作曲賞など計9部門を独占します」
「受賞した翌日から驚いたのは、僕が泊まっていたロサンゼルスのホテルの部屋に映画監督デヴィッド・リンチら有名人が次々と祝福に来たこと。『やあ、おめでとう。一緒に仕事がしたいね』などとあいさつされて戸惑いました。ジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックからは花が届くし、俳優のマーロン・ブランドからは脚本が送られてくる……。すごい騒ぎでした」
――まさにオスカー効果ですね。
「一度認識されると、仲間として迎えてもらえるみたいなところがあるのでしょうね。だから、もしそのままロスに移り住んでいでいたら、その後の僕の人生もかなり違っていた気がします。ハリウッドの映画関係者も『いつ引っ越してくるんだい』なんて必ず聞いてくる。でも、僕はハリウッド村の住人になる気はなかったので、『ロスに越してくるつもりはない』と答えていたら、やがて何も言われないようになりました」
元気なアジア映画、すでに邦画を抜き去る?
――最近は中国をはじめ、香港や台湾、韓国などアジア映画の勢いがすごいですね。
「アジア映画は元気で熱いですよ。タイやベトナム、インドネシアなども含めてグングン伸びている。経済発展に伴い、文化水準も向上し、日本に学ぼうというハングリーさが強い。吸収するペースも速い。日本映画はウカウカしていられません。日本をとっくに抜き去ってしまっているかもしれない。高度経済成長期だった日本もこんな感じだったんでしょうね」
――昨年、日本以外のアジアで初となる韓国映画『天命の城』(2017年公開)の音楽も手がけました。
「最近は寝る前に韓国映画を見ることが多い。なかなか面白いですよ。核戦争の恐怖や北朝鮮でのクーデターを扱うなど脚本がリアルで引き込まれる。役者の演技もいいし、編集もうまい。アクションや恋愛もあり、娯楽性もある。韓国から映画音楽のオファーが来たときは『よし、来た来た』と喜んで引き受けました」
――韓国では反日感情はなかったですか。
「特に感じなかったですね。20年くらい前ならば日本文化に席巻されるという警戒感が強かったんでしょうが、今は自信があるのでしょう。むしろ日本人の僕に映画音楽を任せていることをプロモーションにしていたくらいでした」
――アジアのメディアからの取材も殺到しているようですね。
「すごい勢いです。スポンサーにはお金があるし、読者のニーズも多いので中国、香港、韓国などの雑誌や新聞、テレビ、ネットメディアが次々に取材を申し込んでくる。高名な写真家に撮影を依頼し、多額の取材費をかけている。でも、日本の雑誌もかつてはそれ以上に勢いがあったんですよ。よく仕事をさせてもらったのは角川書店にいた見城徹さん、マガジンハウスにいた小黒一三さん、小学館にいた島本脩二さんの3人。日本出版界の黄金期をけん引したカリスマ編集者で、それぞれ思い出が深いですね」
見城、小黒、島本…、3人のカリスマ編集者との思い出
――見城さん、小黒さん、島本さんとはどんな思い出がありますか。
「見城さんとは神宮前にあるバーで会ったのが最初。女優の関根恵子さんとお酒を飲んでいたのが見城さんで、僕がポロライドカメラで2人の写真を撮り、手渡したのがきっかけです。同世代なので幼なじみのように仲良くなり、一時期はほぼ毎晩のように一緒に飲み歩いていました。彼が編集長だった『月刊カドカワ』に5年にわたって連載を書きました。『ラストエンペラー』でオスカーをとった時は、ロスのホテルの僕の部屋で一緒に祝杯を挙げた。彼は角川を辞めてから幻冬舎を設立。今でも仲良くしています。困っている時に助けてくれるのが友人だとすれば、彼は間違いなく数少ない友人の一人です」
「小黒さんは84年に雑誌『ブルータス』でアマゾンに一緒に行ったのが忘れられない思い出。南米通信という特集でしたが、ピラニアが泳ぐ川で大蛇とともに写真撮影をしたり、ブラジル一といわれた超美形ニューハーフモデルらと派手に酒盛りをしたり。すごい経費を使ったんじゃないですか。アフリカ取材なども積極的に行っていて、社内でも伝説になっていたようです。その後、木楽舎を設立し、月刊誌『ソトコト』を創刊します。島本さんは『GORO』『写楽』を担当し、ベストセラー『日本国憲法』も手がけたヒットメーカー。『YMO写真集OMIYAGE』を出版してくれました。3人とも人間的な魅力にあふれたエネルギッシュな編集者。自分たちが一番面白がって仕事をしていましたね」
(インタビューの最終回を10月12日に掲載します)
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