落語家・桂文枝さん 笑いのDNA、父から継承
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は落語家の桂文枝さんだ。
――お父さんを早く亡くしていますね。
「終戦の少し前、生後11カ月の時に父は戦病死しました。野村銀行の行員でしたが、記憶は当然なく写真でしか見たことはありません。父の死後、母は一人息子の私を連れて父方の河村家を出ました」
――では母子家庭で大切に育てられたんですね。
「いや、全然ちゃうんです。母は5人きょうだいの末っ子で甘えることができた面があったと思いますが、私を兄や姉の家に預けて大阪の梅田の料理旅館で住み込みで働いていました。戦後の貧しい時代です。家族で助け合う気持ちが強かったんでしょう」
「私は小学校時代は長兄のおじさんのバラックのような家に住み、夏休みや冬休みになるとおばさんの家に預けられ、親戚を転々とするような生活でした。自分の子どものように育ててくれたおじさんやおばさんには今もとても感謝しています」
――お母さんとはいつ会っていたんですか。
「週に1回、土曜日の夜におじさんの家に母が来て、日曜は母と一緒に過ごして夜にまたおじさんの家に戻る。そんな生活です。母はふびんに思うのかハンバーグとかオムライスとか、おじさんの家では食べられないごちそうを食べさせてくれました。母と会った後はいつもおなかを壊していました。慣れないものをたくさん食べて、胃がびっくりしてしまうんです」
――お母さんは恋をしていたのでは?
「そうですねえ。私が10歳の時、まだ33歳の女盛りです。恋多き女性だったかもしれません。梅田という華やかな場所でお客さんと飲みにも行ったでしょう。今は96歳。認知症で施設に入っています。私のことも分からない。でも、いい人生だったと思います。私のために人生を犠牲にすることなく、私も母の愚痴を聞いたり苦労を見たりすることはなかった。母が自由奔放に好きなことをやって楽しく生きてくれたから、私も芸の世界で自由に生きていいんだと、そう思えるんです」
――創作落語に出てくる父親は弱い父親像ですね。
「そう。デパートや動物園で子どもに振り回される父親です。私には子が2人いますが、お手本がなかったから子どもをどう扱っていいか分からない。だから落語の中でも情けない父親で情けない夫です。私が父親らしいことをできなかった反映でしょうね」
――お父さんは落語好きだったそうですね。
「そうなんです。母からは堅い銀行員と聞かされましたが、野村銀行時代の同僚に聞くと、落語や漫才が大好きで職場でも披露していたと。すごく楽しくて人間味のある人だったと聞き、うれしくなりました。顔も声も知らないけど、笑いのDNAを引き継いでいるのだと思います」
[日本経済新聞夕刊2017年11月7日付]
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