日本人の舌が育てた味 東京の老舗ロシア料理店
この5月、銀座のある名物料理店が店名を変更した。「渋谷ロゴスキー銀座本店」――。長く渋谷で営業し、2015年に銀座に移転した際、渋谷の名前を残したのだが、「銀座の店は渋谷の店を移転したのではなく、新しい店なのだと気付いた」(ロゴスキー副社長、横地美香さん)と、店名を創業当時と同じ「ロゴスキー」にした。渋谷には渋谷の店の想い出があり、銀座にはまた別の想い出が築かれていく。銀座での営業を続けるうちに、そんな心の変化が表れたのだという。
「ロゴスキー」は創業1951年、日本で初めてのロシア料理専門店だ。軍人としてハルビンに駐留していた長屋緑さんが、同地で食べたロシア料理の記憶を基に、帰国後に妻の美代さんが料理を作って出したのが始まり。
「祖父は軍で寒冷地の食料の研究に携わっていたらしいのですが、そもそも食い道楽で……。ハルビンにはロシア革命を逃れてきた白系ロシア人が多く住んでいて、ロシア人街があったんです。ロシア料理店もたくさんあって、色々な店に何度も通ったそうです。個人のお宅にもお邪魔したり、随分と食べ歩いたようでした」と夫妻の孫、横地さんが教えてくれた。「ロゴスキー」という店の名前は、緑さんが気に入っていたというハルビンのロシア料理店「ロゴジンスキー」を短くしたものだ。
美代さんは、夫の舌の記憶だけで料理を作った。ロシア人に習いたくても、当時は周りにロシア人などいない。現地の料理本を取り寄せ、本を読むために40代後半に店を開いてからロシア語を学んだ。
58年にはロシア料理の本まで出したが、美代さんがロシアを初めて訪れ現地の料理を食べたのは62年。「でも、実はその後も『ロゴスキー』の料理の味は大きく変わらなかったんです」と横地さん。味を伝えた緑さんの舌の記憶が、驚くほど確かだったということだろう。
外国料理というと、いかに「本場の味」と同じかを求められることが少なくない。けれど、「ロゴスキー」では確信犯的に、日本人の舌に合う料理を意識してきた。
「日本とロシアとは気候もとれる食材も違うでしょ。だから、ロシアと同じレシピではおいしくないものもでてくる。大元はロシアのレシピだけれど、そこから大きく逸脱しない範囲で、和食をおいしいと思う日本人の舌を満足させるのは何か、日本で食べておいしいものを追及したのがうちの料理なんです」と横地さんは言う。
創業当時のメニューを見せてもらうと、「ビフトローガ」というメニューがあった。ビーフストロガノフのことだ。「祖父が覚えていた音をそのまま書いたんでしょうね」。日本語名は、「肉野菜牛乳煮」とある。
「向こうではサワークリームだけで煮込む料理ですが、材料が手に入りませんから牛乳を使ったんですね。今でもサワークリームだけで煮込むとしつこくなるので、口当たりが良くなるようホワイトソースを合わせています」(横地さん)。ちなみに、この料理に使うマッシュルームは、当時の日本にはない食材なので、美代さんの料理本のレシピに書かれているのは、「椎茸もしくは松茸」だ。
美代さんはアイデアウーマンで、「ロシア紅茶」も彼女が発明した。温かい紅茶にジャムを入れたものだが、実はロシアではそうした紅茶の飲み方はしない。ジャムは紅茶に添えて出し、お茶請けのように食べるものなのだ。
「祖母もそのことは知りながら、日本人は絶対そんな飲み方をしないってこの飲み方を考えたんです」(横地さん)。当時は紅茶にジャムのほかウオッカを混ぜていたらしいが、現在はワインとブランデーを少し入れた大人の飲み物。ジャムの甘さはあるけれど、左党もうれしい味わいだ。
今でも店の看板メニューであるピロシキとボルシチも、あえて「本場の味」ではない「ロゴスキー風」の料理にしている。例えば日本でピロシキと言えばひき肉が入った揚げパンを思い浮かべるが、「ロシアでは、揚げたものより普通に焼いたパンに具が入ったものの方が圧倒的にポピュラーなんです」と横地さんは明かす。揚げパンスタイルの方が日本でピロシキとして定着したのは、「ロゴスキー」の影響というわけだ。
「ロゴスキー」の2代目、横地さんの両親の代には、グルメブームでもあったせいか、「もっと本場そのものの料理を出そう」としたらしい。だから、ピロシキも焼きピロシキに挑戦した。ところが、揚げピロシキと両方メニューに並べると、出るのは揚げたピロシキばかり。「日本人って揚げ物が好きでしょ」と横地さんはいたずらっぽく笑う。
ボルシチも、日本でポピュラーなのは大ぶりに切った野菜や肉がゴロゴロ入ったトマト味のスープだが、これもロゴスキー風のアレンジで、ロシアでは細かく切った具材を使う。戦争が終わり、ようやく食べ物が十分口に入るようになってきた時代に「ロゴスキー」は開店した。だから、今さら食材を小さく切るのはしのびないと、美代さんはわざと大きく切った食材を用いた。これが贅沢、これこそ外食だと、客を喜ばせた。「祖父母が全国を練り歩いて料理教室を開き、このボルシチを広めた。それで、うちのスタイルが定着したらしいんです」(横地さん)。
横地さんのお父さんの時代には本場と同じボルシチもあった方がいいと、「ウクライナボルシチ」もメニューに加わった。ウクライナは旧ソ連の国でボルシチ発祥の地。今は「いなか風ボルシチ」と名付けられたロゴスキー流ボルシチのスープがトマト味なのに対して、「ウクライナボルシチ」はロシア料理によく使われる赤紫色の野菜、ビーツのスープ。「いなか風」には入らないキャベツの酢漬けが入っている。
もちろん、具材も細かく刻まれたものを使用。「ただし、寒冷な気候のロシアのボルシチは油っぽいんです。それでは日本ではおいしくないので、さっぱりと仕上げています」(横地さん)。深い赤のスープをすすってみると、キャベツの酢漬けの酸味が引き立つ透明感のある味わいだった。
横地さん曰く、ロシア人は「食材をとにかく細かく切って重ねるのが好き」らしい。その特徴がよく表れているのが正月の定番料理だという「毛皮のコートを着たニシン」だ。酢漬けのニシンの上に、ジャガイモ、ゆで卵、ニンジン、ビーツを細かく刻んだ「コート」を重ねたサラダである。
ロシア革命からソ連が誕生するまでの間、20世紀初頭の激動の時代に誕生した料理と言われ、「コート」のそれぞれの層は、プロレタリアート(ニシン)や農民(ジャガイモ)、革命(ビーツ)を象徴しているという説もある。野菜や卵はマヨネーズとサワークリームを合わせたソースで味付けされていて、酢漬けニシンの酸味にコクが加わり、バランス良いまろやかな味わい。
「ロシア人ってマヨラーなんですよ」と横地さんは笑う。その上品な味に今ひとつB級グルメ感の漂う「マヨラー」という言葉がピンとこなかったのだが、後でネットでレシピを調べてみると、「ロゴスキー」のレシピとは異なり、具材の層と層の間にマヨネーズをたっぷり塗るとあった。なるほど。
個人的に、「毛皮のコートを着たニシン」のようなサラダに抜群に合うと思うロシアの食べ物がある。ロシア風パンケーキ、ブリヌイだ。ロシアではチェーンの専門店もあるほどポピュラーな食べ物で、ひき肉やサーモンを巻いて食べたり、ジャムと一緒に食べたり。もっちりとした食感で、細かく刻まれた野菜を載せても、酢漬けニシンを載せて食べても、それはそれはおいしい。なかなか食べるチャンスはないが、超高級食材のキャビアを食べるときにも欠かせない一品だ。
「簡単なロシア料理を日本で再現しようとすると、ものすごく手間がかかったりするんです」と横地さんは言いながら、「ストロガニーナ」という耳慣れない料理の話もしてくれた。メニューの説明書きには「シベリア風冷凍削り牛肉」とある。
「シベリアは氷点下数十度になるような土地でしょ。ほうっておけば食材は勝手に凍るんです。切れないから薄く削って食べるしかない。でも、それを日本でやるとわざわざ冷凍庫に入れて削ってってなるんですよね。食文化って本当におもしろい」。ロシアでは牛肉ではなく、主に生魚を用い、肉なら野生のシカやウサギなどを使うことが多いと言うが、冷凍にすれば寄生虫は死滅し、病原菌の繁殖も防げる。現地の生活の知恵でもある。
冷凍して削って食べておいしい牛肉を研究した結果、現在、「ロゴスキー」では赤身と脂のバランスがいいオーストラリア産の牛肉を使用している。日本では生肉の扱いには規制があるので、軽く表面をロースト、ぎりぎり生の風味が残るようなローストビーフにしてから凍らせているという。
うっすら霜の付いた薄切り肉を食べてみると、口の中の温度ですっと軟らかくなったが、喉を通るとき少しひやっと感じた。ピリ辛の和風だれをかけて食べるのだが、脂が少ない肉なのでさっぱりとして、一人でペロッと一皿平らげられそうだった。「これ、ウオッカに合うんですよ」と横地さんは魅惑的なことを言う。実際、この肉料理を肴にウオッカを飲む人は多いらしい。
店を出るとき、「ロシア漬け」をテイクアウトした。キャベツをはじめ数種の野菜をロシア風ピクルスにしたものだ。そもそも、緑さん美代さん夫妻が「ロゴスキー」を開店するきっかけを作ったのはこの漬物。終戦直後、「つまもの屋」を営んでいた2人が客に店に出していたロシア風漬物を前に、「これだけおいしいロシア漬けができるならロシア料理店を開けば」とアドバイスされたのだ。
ボルシチにも入っていたキャベツの酢漬けを食べてみると、スープで食べたときとは異なる生野菜のフレッシュ感が残る、シャッキリとした食感にうれしくなる。これが、「これだけおいしいロシア漬け」か。ああ、ブリヌイとウオッカと合わせたら最高だろうな、などと思いながら、また1枚キャベツをかじった。
(フリーライター メレンダ千春)
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