ふじのくに演劇祭 非寛容・排外主義の流れに一石
不安定さを増す世界情勢に舞台芸術はどう向き合うか。連休期間中(4月28日から5月7日まで)に静岡市で開かれた「ふじのくに せかい演劇祭」で、見て感じて考える演劇と出合った。2000年から春に国際芸術祭を開きつづける演劇都市、静岡の存在感は年々高まってきた。海外の舞台の最前線を体験できる貴重な場となっているのだ。
5月4日、快晴の駿府城公園では「肉フェス」が開かれ、家族連れでにぎわっていた。夕方、紅葉山庭園前広場に人垣ができる。特設ステージで上演されるギリシャ悲劇「アンティゴネ」の初日に集まった観客たちで、東京から訪れた評論家やプロデューサーの姿が目につく。7月に世界最大ともいわれる仏アヴィニョン演劇祭オープニングで上演される演目のお披露目でもあり、注目度は高い。
舞台にはなんと水が。岩が配置された光景は日本庭園の池のようだ。岩の上には白装束の人間たちが立ち、背後のスクリーンに大きな影を映す。流れる水の気配、光と影、浄瑠璃を思わせる語り。ギリシャ悲劇を東洋的な場に移しかえる演出だった。
上演したのは演劇祭を主催する静岡県舞台芸術センター(SPAC)の専属劇団。演出した宮城聡は1990年に旗揚げした演劇集団ク・ナウカで、演技と語りを分けて人形浄瑠璃のように古典劇を上演する試みをつづけてきた。2007年にSPACの芸術総監督に就任してからその方法を深め、バリ風の音楽を基調とする演奏(棚川寛子音楽)も磨いて国際的に高い評価を受けるにいたっている。
アヴィニョンでは3年前に伝説的な野外上演の場である石切り場でインドの古代叙事詩「マハーバーラタ」を上演し、喝采を受けた。その成功を受け、演劇祭で最も注目されるオープニング公演に欧州圏以外から初めて招かれることになった。宮城が選んだのが、これまでも手がけたことのあるソポクレスの名作「アンティゴネ」であった。
アンティゴネはテーバイの王女で、父はオイディプス、母はイオカステである。オイディプスは父を殺し、母と交わった過去の秘密を知って目をつぶす古代ギリシャの神話的人物として有名だ。その破滅後、王位を継ぐべきアンティゴネの兄ふたりが争い、共倒れになる。王クレオン(イオカステの弟)は反逆者側とみた方の兄については埋葬を禁じる。だが、アンティゴネは市民たちの前で敢然と埋葬の儀礼をした。アンティゴネは死刑宣告され、婚約者だったクレオンの息子も自殺する。
肉親の兄を埋葬していけないのか。人間の感情と政治の非情を対置する戯曲は現代に通じる鋭い問題提起を含んでいる。実際、アヌイやコクトーといったフランスの作家が現代化に取り組んでいる。宮城はこれに新たな視点を盛りこむ。息子の死の衝撃をフォルティッシモの語りで強調し、そのあと無言の盆踊りでしめくくる。弧を描きながら、白装束の人たちが水の中をしずしずと進む。手の動きは盆踊りなのだが、厳粛な葬列、野辺の送りのようでもある。灯籠流しが行われ、船に乗ったインド風の僧が鎮魂の姿態をみせる。これほど鎮魂の空気に満ちた現代演劇はなかなかない。静寂の深い儀式的演劇だ。
戦ったとはいえ同じ兄、敵も味方もない。アンティゴネの魂の叫びを東洋的な祈りの空間に移しかえる演出だった。宮城が記者会見やホームページでくりかえし説いてきた「没したる者、みな、仏」というメッセージが込められた幕切れであった。日本では敵も手厚く葬るのが戦場の儀礼だったといわれるが、背景にある仏教的観念は明らかに一神教的世界とは異質だ。正義と悪に人間を分け、非寛容な紛争やテロ、排外主義に突き進むかにみえる現在の世界に対する、静かだが強固な訴えといえるだろう。
アヴィニョンといえば、一時期ローマ法王が本拠とした歴史的都市であり、この「アンティゴネ」はまさにその法王庁中庭で上演される。要塞のような巨大な壁面は宗教をめぐる争いの根深さを象徴するが、そこに大きな影を映し出すもくろみはどう受けとめられるだろうか。阿部一徳の語り、美加理のものいわぬアンティゴネの悲嘆に力があったが、影絵のダイナミズムや夢幻劇の流麗な感覚などはさらに練り上げたい。
同じ日、東静岡駅前の静岡芸術劇場で見たシリアの演劇「ダマスカス」にも衝撃を受けた。アサド政権下では体制批判に通じる表現はできない。アヴィニョンをはじめとする欧州の諸演劇祭が共同制作した舞台である。シリアにとどまる演出家オマル・アブーサアダと亡命劇作家ムハンマド・アル=アッタールが組み、まさに困難な状況下を生きるシリア人俳優が演じたのだ。
生身の人間が伝える現実の痛切さ
舞台は2層に別れ、下には誰もいないベッドがある。ベッドにすがって見舞客がおえつしたりするのだが、意識不明で眠りつづける病人は上層にいて、その光景を見ている。現実と非現実が交錯する不思議な光景から、残酷な状況が浮かびあがってくる。
それは実話に基づいていた。演出家は親友が何者かに殴打され、意識不明になったあと死亡した事件にショックを受けたという。友人の医師のつてで内戦のせいで意識不明に陥った人の家族を次々と取材することができ、その記録から台本を創り上げた。このドキュメンタリー・ドラマは昨年、アヴィニョン演劇祭などで上演された。
不在のベッドを前に、人々は目覚めさせようと努力したり、家族の近況を話したり、欧州へ渡る決意を述べたり、とさまざまな言葉や身ぶりを明かしていく。死者を嘆く以上に、意識不明の人間と向き合うことは複雑な感情を引き起こす。人を混乱に陥らせ、本音をあぶり出していくのである。生きているのでも死んでいるのでもない「不在」という状況が、シリアという国の現在を痛切に反映する。痛みをともなう観劇は大変だったが、生身の人間でしか伝え得ないドキュメンタリー演劇の力をまざまざと感じた。
それにしても、移民問題で揺れる欧州で、演劇祭がこのような制作を連携して行っていることに深い感銘を覚えた。政治とは異なるチャンネルで、舞台芸術は「心の壁」を取り払おうと現代に問題提起を行っているのである。SPACの招待にも、そのような意図が働いているだろう。
「ダマスカス」の観劇前、演出のオマル・アブーサアダにインタビューした。
――シリアの演劇状況は?

ダマスカスでは演劇も他の芸術も活況を見せているが、体制をたたえるプロパガンダ的な内容だ。表現の自由はなく、検閲も厳しい。我々はシリア国内ではまったく作っていないし、今回のメンバーのうち何人かは帰国することもできない。公演は海外で行っている。この作品はシリアでは上演できない。
革命(アラブの春)のあった2011年ごろ、民主化の活動をした者たちは命を落としたり、亡命したりしている。今はじっとたえている。天安門事件のあとの中国に状況が少し似ているかもしれない。
――演出意図は。
生きても死んでもいない、昏睡(こんすい)状態というのはシリアの現実を示す寓意(ぐうい)だ。自分の手法は言葉を基礎にしている。現実の複数の事件がミックスし、イメージの形で示すことでリアルな光景を見せる演劇ができる。それを海外で、世界の人々に伝えたい。
――なぜ国内にとどまるのか。
シリアで起きている現実を目撃するためだ。自分が危険にさらされることで自分の言葉に責任をとることができる。家族はエジプトにいて、自分は国内、国外半々という生活をしている。次作はベルリンのフォルクスビューネという劇場でシリア難民に出演してもらって、ギリシャ悲劇を上演する。
寛容か非寛容か、忍耐か挑発か、壁を作るのか作らないのか。第2次大戦後に人類が目指した理想に崩壊の兆しがあり、修羅の相が現れ始めている。そんな世界にあって、演劇祭の意義も問い直されている。欧州の芸術祭には、戦乱を反省する大戦後の決意が込められているから、なおさらだ。
ひるがえって日本では芸術祭の効果を経済への波及度、観光資源としての意義などから語るきらいがある。それも大切な要素なのだが、心への効果こそが最初に論じられねばならない。戦争の危険を一気に高めるのは、経済ではなく人間の心の急変だから。
さて今年の「ふじのくに せかい演劇祭」ではほかに、ドイツのニコラス・シュテーマン演出の「ウェルテル!」、フランスのジゼル・ヴィエンヌ構成・演出の人形劇「腹話術師たち、口角泡を飛ばす」、イタリアのピッポ・デルボーノ構成・演出・出演の「六月物語」が来演した。日本からはタニノクロウ演出の「MOON」、野平一郎音楽監督、宮城聡演出のオペラ「1940-リヒャルト・シュトラウスの家」が上演された。
(編集委員 内田洋一)
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