桜の喜怒哀楽を描く画家 岸田夏子
春の満開の時期には、見る人誰もがとりこになる桜。その桜を花も葉も散ったあとも一年中見つめ続け、30年間にわたって描いてきたのが画家の岸田夏子さんだ。岸田さんの描く桜は初々しい咲き初めの花から、妖艶な夜桜まで、多様な表情にあふれている。桜と共に時を重ねる岸田さんに、その魅力を聞いた。
■祖父・岸田劉生の墓地で見た満開の桜の記憶
岸田さんは祖父が「麗子像」で知られる岸田劉生、祖母も母親も絵を描く画家という美術の家系に生まれた。「桜といえば、祖父のお墓参りを兼ねて行く多磨墓地で見る満開の桜が記憶に残っている。入学式など新しいことが始まる季節と、お墓参りという人生の終わりにまつわる桜が、子供心にも印象的だった」
幼い頃から絵ばかり描いていたという岸田さんのいちばんの理解者は母親の麗子さんだった。「自分の描いた絵に、母が寸評を書いては壁に張ってくれるのがうれしくて、励みになっていた」。大学で進路を迷っていたとき、母の『年を取ってから深みを増す仕事を持ちなさい』という言葉に背中を押され、絵の道に進むことを決意。東京芸術大学絵画科に入学して油絵を専攻した。
桜を描くきっかけは1985年、祖父の展覧会が行われていた山梨県の清春白樺美術館を訪れたことだった。小学校の跡地に建てられた美術館をとり囲むように並ぶ桜の木が花盛りであまりに美しく、「描くなら桜」と心を奪われた。美術館のある清春芸術村には、芸術家育成のためのアトリエがある。岸田さんは窓から桜の木が見えるアトリエで一年の大部分を過ごし、20年間、そこの桜だけを見て、描き続けてきた。
アトリエで寝泊まりし、1日を通して桜を見ていると「まるで人のようにいろいろな表情が見えてくる」と言う。「朝の桜は初々しく、楚々(そそ)としているのが、昼間になると商店街の飾りのような、にぎにぎしさが出てくる。夕方になって、静かな神々しい姿になったかと思えば、暗くなるとなまめかしい妖しさを感じさせる。真夜中には見上げると、花びらが口のように見えて襲ってくるようで、とても一人では行けないくらい怖い。ところが、また朝になると同じ桜が、何事もなかったようにすっと、清らかな花に戻っている」
ただ、花ばかりが桜の魅力ではないという。秋の紅葉もすばらしいが、葉が散って残る幹は、黒々としていて雄々しい。「アンバランスのバランスに魅力を感じる。ごつごつした幹と、かれんな花とが1本の木に同居していて、いろんな顔を持っているのがとても人間的」という岸田さん。「描き始めて何年かたったころから、桜と会話ができるようになってきて、心の中で桜とやりとりしながら描いている。昔は人間を描きたいという気持ちもあったけれど、人はいろいろ文句を言うが、桜は文句も言わないし、美的センスも持っているのがいい」と笑う。
■土地によって桜が見せる表情の変化を発見
描けるようになるまで苦労したのは、桜の幹なのだそうだ。桜の木は地上に出ている部分と同じだけ、地下に根を張っている。「学生の頃は『目に見えないところを描きなさい』とよく言われたが、そういう根源的なものもしっかり捉えた上で、たおやかな桜が表現できたらいい」。土地によって、桜が見せる表情が変わることも発見だった。
山梨のどっしりと生えた雄々しい桜しか見ていなかった頃、京都の桜を見て、初めは描けなかったという。「京都の桜は枝の付き方がしなやかで色っぽく、女性的な感じ。歴史も加わって、他の土地とは違うと感じるものがある。それに気づいて、いろんな場所の桜を見て歩くようになった」
最近は新たな表現方法も追求している。気に入っているのは桜の背景に銀や金の箔をはる方法だ。酸化して様々に変わる金属の色は、桜の時のうつろいをあらわす。
昔から桜は日本人にとってなぜか特別な存在で、梶井基次郎の「桜の樹の下には」や、坂口安吾の「桜の森の満開の下」など桜の魔力について描いた小説も多い。岸田さんも桜にとりつかれたのだろうか。率直に、桜ばかり描いていて飽きることはないかと尋ねると、岸田さんは「ないと思う」ときっぱり。「桜には自分の人生を重ね合わせているので、年を取り、いろんなことを見聞きしてくると、また見えてくるものも変わる。桜にも『やっとそこまでわかったの』と言われたりする。そんなやりとりを続けながら、生きている限り桜を描き続けたいと思う」
「絵を描くのは、心が落ち着き、楽しいと感じる。簡単なことではないが、自分で選んだ道だから死ぬときには『ああ、よかった』と思って死にたい。絵描きは人間が生きていくのにいちばん大切な食べ物をつくる農家のように、生活を支える何かを作るのではない。ただ、生涯を通して桜と向き合い、描く桜の姿が人の心の糧になるような仕事をしなければならないと思っている」。時間と共にますます深みを増した、新たな桜の表情を見せてもらえそうだ。
(映像報道部 槍田真希子)
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