俳優・中村有志さん 真面目な父、怒ると強烈
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は俳優・パントマイマーの中村有志さんだ。
――お父さんは北九州・小倉で靴店を営んでいた。
「普段は真面目でおしゃれなおやじでした。私は末っ子で3人の兄と2人の姉がいたのですが、靴を売って子ども6人を育てるのは大変だったと思います。当時の小倉の商店街は毎日が大みそかのにぎわい。商店街という共同体暮らしでしたから『とにかく人様に迷惑をかけるな』とよく言われました」
「そんな父ですが、荒っぽい兄たちすら絶対服従するほど怒った時はめちゃくちゃ怖かったです。小学校低学年のクリスマスの夜、姉がケーキを買って前触れなく彼氏と帰宅。おやじは烈火のごとく怒り、家中が壊れてしまいました。ケーキも買えないほど貧しかったので、ぐちゃぐちゃになったケーキを泣きながら食べたのを覚えています」
――末っ子として育った。
「兄たちが両親からお金をせびって怒られるのを何回も見てきました。おふくろも気性の激しい人でしたし、自分の小遣いくらいは自分で稼ごうと決め、野菜の配達や露店の組み立てなど、小学生の頃から商店街で働きました。後々、おふくろから『生真面目なところがおやじそっくり。手がかからず勝手に大きくなった』と言われました」
――高校1年の時にお父さんが胃がんで亡くなります。
「おやじが死んだ後、おふくろから『お前は父親に感謝しなきゃいけない』と言われました。僕はおやじが56歳、おふくろが44歳の時の子ども。おふくろは恥ずかしくて中絶しようとしたそうですが、直前に知ったおやじに産んでほしいと強く言われてとどまったそうです。そんな話があったと知りショックでしたが、父には感謝の思いです」
――高校卒業後、俳優を目指して上京しました。
「高校時代は社会人の劇団に所属し、先生から上京を勧められました。厳しいおやじが生きていたら芸能界には進めなかったと思います。おふくろが駅まで見送りに来たのですが、寝台列車の扉が閉まる瞬間の別れの言葉が『東京に行って女買うなよ』。何かを見抜いていたのでしょうか。いまだに不思議です」
「役者としてやれるメドがつくまで意地でも田舎には帰らないつもりでした。お金がなくアルバイトばかり。たまにおふくろに電話すると、帰って来いと心配してくれました。でもめったに帰らず、パントマイムや舞台を見せたこともありませんでした」
――地元を舞台にした映画に出演しました。
「60歳という区切りの年に故郷で撮影できるとは感慨深かったです。当時ほどの活気はありませんが、撮影の最中でも絡まれるなど、相変わらず小倉らしいなと懐かしくなりました。仕事や人生について、おやじだったらどうするかなと、ふと話してみたくなりますね」
[日本経済新聞夕刊2017年3月21日付]
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