肉にまつわる3つのお話
立川吉笑
毎週日曜更新、立川談笑一門でのまくら投げ。今週のお題は「肉。肉。肉。」ということで、今週も次の師匠まで無事にまくらを届けたい。
<肉1>
僕は2010年10月6日、師匠に弟子入り志願した。
独演会の終わりに出待ちをして、弟子入りしたいとお伝えしたら「まずはメールで履歴書を送って欲しい」と言われた。履歴書を送って数日後、新宿の喫茶店でお会いしていただけることになった。
面接が終わって、僕は見習い以前の「インターン」というような、客分の状態で師匠の会に出入りさせていただけることになった。
「落語会の裏側を見せてあげるから、そこで働いている前座さんの様子や、楽屋におられる師匠方の様子を見て、もう一度やりたいかやりたくないか判断しなよ」
とおっしゃった。
もちろん、弟子入り志願している時点で相当な覚悟を持っているから、楽屋で働いておられる前座さんの大変な様子をどれだけ目の当たりにしても「やっぱりやめときます」と思うことなどあり得なかった。
ちょうど1カ月たった11月6日。
この日は赤坂にある草月ホールで師匠の独演会があった。『落語入門』と名付けられた企画は昼夜2回公演で、昼の部は立川志らく師匠が、そして夜の部は師匠が、それぞれ落語を初めて聴くお客様に向けて独演会をやるという趣向だった。
最後の一席『芝浜』をやり終えて、深く頭を下げている師匠。しばらくの間、大きな拍手が鳴り響いていた。
次の瞬間、高座の上の師匠が舞台袖にいる僕の方を見て
「どうする?」
とおっしゃった。
言葉が聞き取れなかった僕が戸惑った表情をしていると、もう一度
「やる?」
と言いながら、手招きをされた。
袖にいた前座さんに促されて僕は恐る恐る高座に向かって歩き始めた。このまま土足で舞台上を歩いていいのかどうか迷いながら師匠に近づいていくと、今度ははっきりと、
「落語やるかい?」
と聞き取れた。僕は「この場で今から落語をやるかい?」ということだと解釈してしまい、
「いやっ、とんでもないです。無理です」
とヘンテコな答えをしてしまった。
「そうじゃなくて、落語家になるかい?」
と改めて師匠にきかれて、僕は「はい、お願いします」と答えた。
「本日は『落語入門』という会ですが、本当に弟子をとったところでお開きとさせていただきます」
と言って師匠はまた深く頭を下げられた。
僕もその横でぎこちなく頭を下げた。
そのうえでさっきよりも大きな拍手が鳴り響いていた。
会が終わって、中野区にある師匠行きつけの焼肉屋へ連れていってもらった。
久しぶりに食べる焼肉はとてもおいしかったはずだけど、緊張していて味なんかほとんど覚えていなくて、それでもその時に言われた
「とにかく良い落語をやれるようになりなよ」
という言葉だけは今でもはっきりと覚えている。
<肉2>
僕はたまたま買った立川志の輔師匠のCDで落語と出合った。
お笑い好きだった僕は、落語なんて古臭くて難しいものだと思い込んでいたから、初めて聴いた志の輔師匠の落語の面白さに心を撃ち抜かれた。
2席入ったCDをその日のうちに聴き終えた僕は、すぐに別のCDを買いにCD店へ走った。
レンタルショップでも落語のCDを借りられることを知らなかった当時の僕はバイト代が振り込まれる度に志の輔師匠のCDを買いに走った。
ついに数万円もするBOXセットを買った僕は発売されている志の輔師匠のCDを全部手に入れた。それでももっともっと落語を聴きたくて、次は誰のを聴こうか考えたときに、志の輔師匠の師匠である、立川談志師匠にたどり着いた。
談志師匠のCDは膨大にあって、それを1つずつ聴いていくうちに気付けば落語が大好きになって、立川流が大好きになって、結果的に談笑の弟子になろうと決心するに至った。
いろいろな要因で僕は談笑の弟子になろうと決心したけれど、それでも落語と出合わせていただいた志の輔師匠は僕にとって別格の存在で、入門して初めて間近で志の輔師匠とお会いした時は感動を通り越してただ呆然とするしかなかった。
前座として毎月楽屋勤めさせていただいた池袋の新文芸坐落語会にゲストで志の輔師匠が出演されたとき。志の輔師匠の高座が終わって僕は高座返し(1席終わったら前座が舞台に出て行き、座布団をひっくり返し、脱がれた羽織を回収して、名前の書かれたメクリを次の演者のものに変える作業)に向かった。
そこに脱がれている鮮やかな緑色の羽織を触っただけで、ついさっきまで志の輔師匠が着られていたんだと思ってしまい鳥肌が立った。
脱がれた羽織に対してそれくらい気持ちを振り回されるのだから、志の輔師匠と接する度に心臓がキューッと締められる感覚がして、基本的には鳥肌が立ちっぱなしになってしまう。
そんな志の輔師匠と談笑が共演した落語会に僕は前座として入っていた。
会が終わったあと、志の輔師匠が
「談笑、ちょっと飯いくか?」
とおっしゃられた。
これまでだったら、師匠の着物を預かって前座の自分はその場で解散という流れが多かったけど、志の輔師匠に対して僕がただならぬ思い入れがあることを知ってか知らずか、師匠が
「こいつも一緒にいいですか?」
と志の輔師匠におっしゃって下さり、僕もその打ち上げに参加させていただけることになった。
志の輔師匠とご友人の方と師匠と僕と、4人で入ったのは焼肉屋さんだった。
出入りしやすいようにと、志の輔師匠が手前の席に移動されたことで、結果的に僕の目の前に座られる形になった。
脱がれた羽織に対してすら祈りを捧げたくなるような、言ってしまえば神様が目の前にいて、これから僕と一緒に焼肉を食べるんだと思うと少し笑えてきた。
「悪いけど、適当に注文しといてくれるか?」
生ビールで乾杯をした後、志の輔師匠にそう指示された。
打ち上げの席で注文を任されるのは前座あるあるで、そこでの気の使い方も重要な前座スキルの1つだ。自分が好きなものじゃなくて、師匠方が喜んでくださるモノをいかにチョイスできるか。これは気働きのセンスを問われる。
前座になってから何度も打ち上げは経験しているけれど、今回はいつもの打ち上げじゃなかった。何しろ目の前にいるのは志の輔師匠だ。神様だ。
途端に冷や汗が噴き出た。変なチョイスをするわけにはいかない。むしろここで抜群の注文をして「こいつはセンスがあるな」と思っていただきたい。志の輔師匠に「こいつは気が利くな」と言っていただけたら師匠も喜んでくれるはず。志の輔師匠が今の自分と同じ立場だったらどういう注文をされるだろうか?
楽しそうにしゃべられている師匠方の横で自問自答を続けた。
意を決して店員さんを呼び、僕は注文を始めた。
タン塩、ロース、カルビ、野菜の盛り合わせ、キムチ。
ひとまずこれだけを頼んでみることにした。
圧倒的にしくじることだけは回避した、逃げの選択だ。
その上で難しかったのはお肉の質をどうするか。カルビ1つとっても並・上・特上・特選くらいに種類がある。
たぶん会計は志の輔師匠がされることになる。高いモノを頼み過ぎると失礼になるんじゃないか。でも安いモノを選ぶと「俺がそんなにお金がないと思っているのか」と怒られるんじゃないか、とかいろいろなことを考えてしまった。
その結果、「タン塩は並で、ロースは特上で、カルビは上で」みたいに、これまた圧倒的にしくじることだけを回避した、逃げの選択をした。
並とか特上とかをバラバラに頼む僕を見て志の輔師匠はひとこと
「談笑の弟子は変わった注文をするなぁ」
とおっしゃられた。
師匠の横顔が少し赤みがかって見えたけど、それがお酒のせいなのか自分のせいなのかはわからなかった。
<肉3>
二ツ目になって4年がたった。
最近ではありがたいことに少しずつ仕事も増えてきて、たまには自腹で外食できるようにもなった。
先日、奮発して鉄板焼き店にステーキを食べに出かけた。
前座のときだったらそれだけで一カ月の食費になるような、とても高いコースを頼んだ。
野菜とか魚介類とかシメのガーリックライスとか、それはそれはとてもおいしかったけど、やっぱり一番感動したのはステーキだった。
「今からこのお肉を焼きます」という感じでシェフが分厚いお肉を見せに来られた。見たことないくらいのきめ細やかさでサシが入ったそのお肉は、見るからにおいしそうだった。
じっくりその肉を眺めているうちに、この光景をどこかで見たことがある感じがした。
「どこだったっけなぁ」としばらく考えてピンときた。
サシの入り方が神保町の地図とそっくりだったのだ!
靖国通りがあって、白山通りがあって、すずらん通り商店街から1本脇道に入ったところに喫茶店があって、とどうみてもこれは神保町の地図とピッタリ重なるのだ。
感心しながらサシを眺めていると、一カ所、まるで星印が付けられたような場所が目についた。ここに何かがあるはずだと、お肉の写真を撮って、次の日サシの地図が示す場所に向かってみた。
駿河台下から少し路地を入ったその場所は特に何もなかったけど、気持ち良い風が吹いていた。
(次回3月26日は立川談笑さんの予定です)
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