オペラ「ルチア」舞台彩る在イタリア美術家
新国立劇場(東京都渋谷区)がドニゼッティ作曲のオペラ「ルチア」を新制作した(3月14~26日公演)。ロシアの人気ソプラノ、オルガ・ペレチャッコさんのルチア役に注目が集まる。その中で、19世紀スコットランドのロマン主義を標榜した舞台美術も話題を呼んでいる。製作担当はイタリア在住の白石恵子さん。引き裂かれた愛の悲劇「ルチア」の魅力を舞台美術の視点からも探った。
「ランメルモールのルチア」が正式名の同オペラは、イタリアの作曲家ガエターノ・ドニゼッティ(1797~1848年)によるベルカント・オペラの傑作。原作はスコットランドのロマン主義詩人・作家サー・ウォルター・スコットの小説「ラマムアの花嫁」。ランメルモール地方の領主エンリーコが妹ルチアを富裕な貴族アルトゥーロと政略結婚させようとする。だがルチアはエンリーコの宿敵の騎士エドガルドと愛し合っている。2人の仲を引き裂く兄。正気を失ったルチアは婚約者アルトゥーロを刺殺。血に染まったルチアが祝宴で歌う「狂乱の場」が最大の見せ場となる悲劇だ。
■世界の潮流「ベルカント・オペラ」の新制作
「ベルカント」とはイタリア語で「美しい歌声」という意味で、イタリアオペラ独特の滑らかな自然体の発声法をさす。単に声量で押し通すのではなく、強弱のコントラストや声の微妙な震わせ方など、華やかできめ細かい装飾技法に基づく歌声だ。こうした発声法が全盛だった19世紀前半のイタリアオペラを特に「ベルカント・オペラ」と呼び、ロッシーニ、ベッリーニと並ぶ代表的な作曲家がドニゼッティだ。
「今、世界のオペラ界の潮流はベルカント。素晴らしい歌手がいっぱい出てきている。新国立劇場でもベルカント・オペラを聴けるようになってうれしい。ドニゼッティやベッリーニをもっとやるべきだ」と音楽評論家の加藤浩子さんは語る。「ベルカントの新女王」と呼ばれるのが、今回ルチア役を演じるペレチャッコさんだ。ロシアのソプラノでは大御所のアンナ・ネトレプコさんに続く世代で、「軽い歌声だが、芯がちゃんとあり、高度の技術を持っている」と加藤さんは絶賛する。恋人エドガルド役のテノール、イスマエル・ジョルディさん、それに兄エンリーコ役のバリトン、アルトゥール・ルチンスキーさんと合わせて「ウィーン国立歌劇場やニューヨークのメトロポリタン歌劇場にそのまま出ても遜色ない配役」と指摘する。
本公演の前、新国立劇場で「ルチア」の舞台稽古を3月7日と11日の両日見た。本稿の映像は7日の稽古の様子を捉えている。第1部を映しているが、ペレチャッコさんらは本番通りの演技ながら歌唱については声量を抑えている。11日はゲネプロ(総舞台稽古)となり、ジャンパオロ・ビザンティさんの指揮による東京フィルハーモニー交響楽団が普段着姿でピットに入り、全幕を通しで上演した。
■19世紀ロマン主義の雰囲気を出す舞台装置
兄エンリーコの陰謀で政略結婚をさせられ、その婚約相手を刺殺し、生首をやりの刃先に突き刺して登場するルチア。正気を失ったルチアが歌う有名な終盤の「狂乱の場」をはじめ、ペレチャッコさんの滑らかで繊細な、浮き上がるような歌声による感情表現が聴き手を魅了する。
舞台を眺めると、そこにも様々な工夫があることに気付く。時代設定はドニゼッティがこのオペラを作曲した1835年当時、ロマン主義の芸術が花開いた19世紀半ばとなっている。「演出家のジャン・ルイ・グリンダさんから演出プランの最も芯の通っているキーワードを聞いた。それがロマン主義だった」と話すのは舞台美術家の白石恵子さんだ。
19世紀ロマン主義のスコットランドといっても、どんな雰囲気の舞台なのか具体的に想像が付かない。キーツやワーズワースら英国のロマン派詩人が思い浮かぶが、彼らはイングランド出身だ。白石さんが演出家から聞いた話では、それは「自然への恐怖や畏怖を反映した雰囲気」なのだという。そこで白石さんは「リアルでありながら、ゆがんで、崩れて、ずれているところもある、そんな舞台装置をロマン主義の雰囲気を出しながら作ろうと思った」と語る。
オペラは波が押し寄せる岸壁から始まる。遠くまで広がる空はどんより暗い。わずかに黄色みを帯びた陽光が差し込むだけ。その岸壁の上にエンリーコ派の男たちが銃を持って登場し、宿敵エドガルドを捜索する。岸壁に打ち上げられる波しぶきはプロジェクションマッピングによる投写映像だ。石灰岩のような岸壁は照明の当て具合で白や灰色やクリーム色に変わる。英国ロマン主義の画家ターナーの海のある風景画にも似ている。
「人間はこんなにも小さくて、大きな自然の中では勝てないみたいな雰囲気を出そうと思った」と白石さんは言う。動じない岩、不吉な雲行き、今にも荒れ狂いそうな海。自然の中で繰り広げられる人間たちの争いは、確かに卑小だ。同時にこうした自然描写は、登場人物たちのかたくなな姿勢、悲運、狂乱への予感をも表しているかのようだ。だが自然の描写とはいえ、「自然素材に見える大道具は実はフェイク(模造品)」と語る。歌劇場で使える材料には制限がある。さらに「(フェイクの)素材に大変な加工を施さないとロマンチシズムの雰囲気にならない」とも説明する。
白石さんは1993年に渡欧し、97年にイタリア国立美術学院ローマ校舞台美術科を首席で卒業した。学生時代にローマ歌劇場で2年間見習いで仕事をしたのを機に、舞台美術家としてオペラやバレエ、演劇の美術プロジェクトに関わるようになった。98年からイタリア北部のモデナに暮らし、モデナ市立歌劇場の絵画工房を拠点に活動している。「私は工房の虫。ほかの歌劇場のオペラを見に行く機会はほとんどない。1841年に建てられた歌劇場の屋根裏部屋で仕事をしている」と話すほどモデナ市立歌劇場に入り浸っている。「イタリア在住のオペラの舞台美術家は日本人女性としては私くらいでしょう」と話す。
■模造品が生み出すスコットランドの情景
そんな白石さんが制作する舞台の大道具は、確かにイタリアに長年暮らして欧州を熟知していないとできないものだ。泉のある庭でルチアとエドガルドが会う場面では、丘の斜面に芝生が生えている。「芝生の生え方も国によって違う。スコットランドは湿気のある国。太陽もイタリアみたいに照らない。芝生の生え方から違っている。人工芝を使うのが一番手っ取り早いが、プラスチックな感じでわざとらしい。そこで今回はフェイクの毛皮を購入して使った。それを染めたり、燃やしたり、毛を切ったり、加工して芝生に見えるようになっている」と白石さんは説明する。
舞台には丈の低い松の木が登場する。「スコットランドの松は、たくさん太陽の光をちょうだいって、横に伸びている感じ」と話す。「狂乱の場」では途中で祝宴の会場が泉のある庭に切り替わる。返り血を浴びた白い衣装で、正気を失ったルチアがエドガルドとの幻の結婚を歌う場面だ。2人が愛を誓い合った庭の芝生が、淡い黄緑色で浮かび上がる。そして最終場面では、エドガルドがルチアの亡きがらを抱き上げて歩き出す。北方の海に突き出た岬の先端へと。そこにも淡い黄緑色の芝生が生えている。
「私にとって舞台装置は自分の娘。生んで育てて、世界で一番きれいな娘。自分の子供を嫁に出している状態なんです」と白石さんは語る。「私がイタリアでオペラの装置を作るというのは、イタリア人女性が日本に来て歌舞伎の装置を作るようなもの」と言うが、彼女を指名して仕事はやってくる。イタリア人がオペラで描いてきたのは、「ルチア」ではスコットランド、ヴェルディの「アイーダ」ではエジプト、プッチーニの「蝶々夫人」では日本だったりする。イタリア人でさえよく知らない遠い国々を描くオペラの舞台は「本物に見えるフェイクの世界。実物を持ち込むと逆に違和感が生じる」。トップクラスの歌手たちの歌声と演技を味わうとともに、卓越した想像力と発想で作り上げられた舞台上の美術作品にも目を凝らしたい。
とはいえ、白石さんら裏方の舞台美術に支援されて魅力を増すのは、やはり「ルチア」の音楽だ。ビザンティさんの指揮による東京フィルの演奏は、音量が大きすぎず、控えめに、歌手たちに寄り添うような伴奏で、繊細な感情表現に満ちた歌を引き立てる。「主張しすぎず、歌手たちを支える指揮をする。じゅうたんのようなオーケストラの響きを作っている」と音楽評論家の加藤さんは指摘する。「狂乱の場」ではグラスハーモニカと呼ぶ珍しい楽器を原曲通りに使って、ペレチャッコさんの柔らかい歌声と合わせて幻想的な雰囲気を作り上げる。「ルチア」は狂乱の場で終わりかと思ったら、もう一段落あるオペラだ。最後はルチアの亡きがらを前にしたエドガルド役のテノール、ジョルディさんの情感あふれる歌唱が聴きどころ。これぞオペラという舞台を見て聴いた気分になるのは間違いない。
(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)
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