おしゃれなだけじゃない 心底癒されるセラピー映画
『かもめ食堂』(2006年・日本)
春はなにかと、心がざわざわする季節。職場は年度末で多忙を極め、異動や組織変更など環境の変化が、神経をすり減らします。
そんなとき、疲れた心身のデトックス映画としておすすめしたいのが、日本映画『かもめ食堂』(監督:荻上直子/原作:群ようこ)です。舞台は、ゆったりした時間が流れる北欧フィンランドの首都・ヘルシンキ。この町で日本食の食堂を営む日本人女性・サチエ(小林聡美)を主人公に、なんてことのない日常とちょっとした出会いを描く物語です。
公開当時、本作を「スローライフ映画」「癒やし映画」と呼ぶ向きもありました。「ロハス」「オーガニック」「北欧」が多少のバズワード感も込みで、世の中に浸透した時期だったせいかもしれません。実際、『かもめ食堂』を理想的なライフスタイルのバイブルとしてあがめ、心酔する女性も筆者の周りに何人かいました。要は、現在でいうところの「ていねいな暮らし」の理想形というわけです。
当時劇場に行かれたかたのなかには「ストーリーは覚えていないけど、料理は思い出せる!」という人もいることでしょう。サチエが1杯ずつ心を込めていれるハンドドリップコーヒー。生地から作るシナモンロール。パリパリののりを巻いた白米のおにぎり。どれも、すごくおいしそうでした。
清潔でこぢんまりしたかもめ食堂の厨房、ぴかぴかに磨き上げられたフライパンや鍋、シンプルだけど温かみのあるテーブルや椅子も魅力的です。ああ、自宅があんなだったらいいなあと、家具屋や雑貨屋めぐりをした人もいるのではないでしょうか。
サチエの生活ぶりにも憧れます。仕事のあとには室内プールでゆっくり泳ぎ、鍋でご飯を炊き、煮物をこしらえる。毎日をおだやかに、菩薩(ぼさつ)のごとく、心乱すことなく暮らしている……(ああ、私の今の生活と、なんて違うんだろう!)。
一級のセラピー映画
この映画には、パソコンもインターネットも、テレビすら登場しません。携帯電話は日本人旅行者のマサコ(もたいまさこ)がロストした荷物を空港に問い合わせる場面でちらりと登場しますが、ほとんど画面に映らないように撮られています。
IT(情報技術)機器や携帯電話は、いつでもどこでも人や世界とつながれる便利な道具ですが、いつでもつながってしまえること自体が、むしろ現代人の心を疲労させ、息苦しくしています。それらが登場しない『かもめ食堂』は、ある種のデジタルデトックス映画なのです。
それを象徴するかのように、サチエは誰とも積極的につながっていません。物語開始時点では、フィンランドに居を構えてしばらくたっているはずなのに、現地にはフィンランド人の知り合いも、日本人の友達もいない。旅行者のミドリ(片桐はいり)と出会ってようやく知り合いになりますが、それまでのサチエが孤独で寂しかったようには描かれていないのです。
また、サチエはマサコの荷物が見つかって彼女が帰国することになっても、特に名残惜しそうにもしません。人は人の人生、人は変わっていくし、去る者追わず――という信条を、ごく自然に貫きます。サチエには動揺や焦り、葛藤や執着の類いが、みじんもないのです。
こうなると、サチエと他の登場人物との会話は、なにやら心療内科の先生と患者のようにも見えてきます。サチエは相手のほうを向いて、ゆっくり、はきはきとしゃべります。相手を興味本位で詮索せず、かといって突き放しもしない。よく話を聞き、しっかりうなずき、シンプルな言葉で誠実に返答します。観客はサチエを見ていると、自分もカウンセリングを受けているような気分になるのです。
そもそも映画の撮り方じたいが、セラピーです。カメラは大半のシーンで常に静謐(せいひつ)で、動きは最小限。なぎの湖面のように落ち着いています。人物を追いかけるときも、カメラは急に動きません。観客を決して「びっくり」させないのです。
どのシーンも構図は奇をてらわず、安心感に満ちています。不安感や違和感をあおらない、心療内科の待合室に飾ってある静物画のように、完璧な調和がとられています。この映画からは、観客の心をざわつかせる(可能性のある)不快なノイズが、徹底的に排除されているのです。
癒やされる理由は「スタイル」ではない
もうひとつ、この映画には際立った特徴があります。映画に登場する日本人女性は、見た目にアラフォーのサチエとミドリ、同じくアラフィフのマサコの3人ですが、3人とも、自分に現在パートナーがいるかどうか、過去にいたかどうかを語りもしなければ、互いに聞きもしません。
通常、大人の女性を主人公に据えて、彼女のライフスタイルを中心に描く長編映画では、彼女たちに現在パートナーがいるのか、いないのか。未婚なのか、既婚なのか、離婚経験者なのかを、なるべく開示するような脚本を作ります。そうすれば、彼女が「どういう女」なのかが手っ取り早く観客に伝わるからです。
しかし、見た目の年齢感とパートナーの有無をかけ合わせて女性の人格を「手っ取り早く」決めつけることほど、恐ろしい偏見はないでしょう。現代日本では日常茶飯事ですが――「その年で彼氏いないの? 寂しい女だね」「子持ちにしては所帯じみてないね」「若いのにバツイチなんだ。フーン……」等々。
『かもめ食堂』は、そんな戦慄レベルの悪習に反旗を翻しました。3人にパートナーがいるかいないか、未婚か既婚かは劇中で明かされませんが、それでも十二分に彼女たちの人間味やちゃめっ気が、画面から伝わってくるからです。
世間から勝手に張り付けられる社会的な「ラベル」、旧来的な価値観から決めつけられる女性としての「ステータス」。それらに強い不快感を抱いていた女性たちに、「"わたし"として生きていれば、それでいいじゃない」と優しくささやいたのが、『かもめ食堂』という映画でした。
11年前にこの映画が与えてくれた「癒やし」とは、おしゃれな北欧テイストやセラピー感満載の演出といった表層的なスタイルに留まらない、もっと本質的なものでした。だから、いま見ても、否、いま見るほうがずっと、骨の髄まで癒やされるはずなのです。
編集者・ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年に独立。著書に『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)、『ドラがたり――のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS)。構成担当書籍に『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(幻冬舎/原田曜平・著)など。「サイゾー」「SPA!」ほかで執筆中。http://inadatoyoshi.com
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