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聖徳太子は実在したか 奈良・斑鳩を訪ね、ナゾに迫る

2017/3/1

法隆寺の五重塔や金堂

 「聖徳太子」が消える――。文部科学省は歴史の教科書で聖徳太子が後世に付けられた呼称だとして「厩戸(うまやど)王」に改めることを決めた。古代史上の偉人として誰もが知っていながら、その実像はさまざまなナゾに包まれてきた聖徳太子。激動の7世紀前半に推古女帝の皇太子・摂政として十七条憲法や遣隋使、仏教興隆などを手がけたのは本当は誰だったのか。その真の姿を探しに太子一族興亡の地、奈良・斑鳩(いかるが)を訪ねた。

■法隆寺は呪いの寺?

 聖徳太子が創建し世界最古の木造建築物でもある法隆寺。一歩境内に入れば視界に入るものの多くが国宝だ。なかでも「大宝蔵院」には百済観音像や夢違観音像、玉虫厨子(ずし)など超A級の国宝群がそろい踏みしている。しかし法隆寺をもっと知るためには、この碩学(せきがく)の言葉に耳を傾けねばならない。「隠された十字架」(1972年初版、新潮社)の著者、哲学者の梅原猛・国際日本文化研究センター顧問である。梅原氏は法隆寺を「怨霊となった聖徳太子を鎮魂するための寺」と説く。法隆寺は呪いの寺だというのだ。

聖徳太子は実在したのか

 聖徳太子は605年、都のあった飛鳥から斑鳩に移り住み斑鳩宮と斑鳩寺(後の法隆寺)を建設した。しかし早くも643年、長男の山背大兄王子が蘇我氏との政争に破れ一族は全滅してしまう。偉大、荘厳なイメージとは裏腹に悲劇の一族であり、斑鳩は血塗られた地でもあるわけだ。その後の流行病のまんえんなどは聖徳太子のたたりと考えられ、時の権力者である藤原氏が鎮魂のための場所としたのが現在の法隆寺という。

 中門、金堂、回廊――。梅原氏によれば約18万7000平方メートルと広大な法隆寺のそこかしこに太子一族の「死」のイメージが隠されている。有名な五重塔にしても「法隆寺資財帳」の公式記録の高さと実際の高さとでは大きく食い違うなどの怪しいナゾがある。決定的なのは夢殿の「救世観音菩薩(ぼさつ)」だ。聖徳太子の等身仏として長い間秘仏とされ続け、明治期に初めて出されたときは白布でグルグル巻きだったという。梅原氏は救世観音の光背が後頭部にくぎで打ち付けられていることや仏像の中が空洞になっていることに注目。聖徳太子の怨霊を封じ込めるためのものと結論した。「仏像の頭にくぎなど通常では考えられない」(梅原氏)。

■梅原氏「古代の人々が憑依してくる」質

 敬われるべき法隆寺に対し梅原氏はどうしてこんな大胆な発想が可能だったのか。若い頃から何度となく法隆寺を訪れたがその度にナゾが深まっていたという。しかしある史料で山背大兄王子を襲撃した将軍がのちに法隆寺に寄進していたことを確認。梅原氏は「補助線を一本引くと幾何学の問題がすっと解決するように疑問が氷解した」と当時を振り返る。怨霊の存在とその鎮魂こそが日本思想の根本の一つと位置付ける。91歳の現在も意欲的に執筆活動を続けており「自分にはのり移られる性質がある。古代の人々が憑依(ひょうい)してくる」と笑いながらうそぶく。

 梅原説にはもちろん否定的な見解も少なくない。相手が怨霊では遺跡発掘などでの証明しようもないからだ。しかし「隠された十字架」は哲学の専門家の難解な大作でありながら破格の大ベストセラーとなった。単行本は59刷、文庫版は56刷を数える。倉本一宏・国際日本文化研究センター教授は学生時代に初めて読み「その発想が色々なヒントを与えてくれた」としている。

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