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蕎麦をたぐり、酒をたしなむ 旅は道連れ「蕎麦屋酒」 芝浦工業大学特任教授 古川修

2017/1/30

信州の土の香りを感じる「木鶏」のせいろ

 日本酒好きにとって蕎麦(そば)店は特別な場所だ。何しろ、江戸時代はうまい日本酒を飲むなら蕎麦店に行くというのが鉄則だったから。日本酒にこだわるお客に対して、シンプルで潔い酒肴(しゅこう)が、蕎麦店で発達した。今も名店といわれている蕎麦店は、こうした江戸の食文化を受け継ぎ、日本酒ファンを取り込んでいる。日本酒と蕎麦に造詣の深い古川修氏に、「蕎麦屋酒」が堪能できる各地の蕎麦店を案内してもらった。

◇   ◇   ◇

 蕎麦店で飲む酒は居酒屋とは一線を画す。

 なぜなら、蕎麦店の酒肴はシンプルで種類も多くなく、潔いから。これをひもとくには、ちょっとした江戸時代の「蕎麦屋酒」文化を振り返る必要がある。幕末のころは、蕎麦店は酒を飲むところであった。江戸には独身の職人が多く、仕事帰りにちょっと一杯ひっかける格好の場所が蕎麦店だったのだ。

 短気な江戸っ子を迎えるにあたり、蕎麦店はまず種物に使う食材をささっと調理して出す。例えば、板わさ、だし巻き卵、のり、鴨(かも)焼き、焼き蕎麦味噌などなど。味噌がなぜつまみに利用されたかというと、江戸初期のころは、蕎麦は醤油(しょうゆ)ベースのつけだれではなく、味噌だれで食べていたからだという。醤油は関東では造っておらず、上方からの下りものとして高級品だった。

 こうした酒肴に、特に上等な日本酒、すなわち「上酒」を提供することを、蕎麦店の商売の戦略とした。蕎麦を出す前の酒なので、「蕎麦前」とも呼ばれている。このころの居酒屋は量り売りの日本酒を薄めて出していたりしていたので、蕎麦店に行けばうまい酒が飲めるという評判により、蕎麦店は繁盛を極めていった。

 ということで、蕎麦店では昼から酒を飲んでも許される雰囲気を持っている。女性が1人で飲んでもさまになる。居酒屋と違って、酒肴はシンプルであり、長居をせずに最後は蕎麦をたぐって帰る。その瀟洒(しょうしゃ)な潔さが蕎麦店で酒を飲むことの特徴であり、江戸の文化をそのまま飲んでいるかの気になるのだ。

■酒肴がシンプルでうまい 正統派を堪能

「蕎麦きり 吟」は、カウンター5席、テーブル10席、個室5席の落ち着いた雰囲気

 蕎麦店の定番の酒肴で飲む酒は実にうまい。そして、酒肴はもともと種物の具なので、しめの蕎麦にも違和感なくつながってくれる。そのような、正統派の蕎麦店が広島市にあり、連日満席でにぎわっている。広電「段原一丁目」停留所近くの住宅街に密(ひそ)かに佇(たたず)んでいる「蕎麦きり 吟(ぎん)」だ。隠れ家のような蕎麦店である。

 ご主人の前田良孝さんは広島県庁の元職員。全国に名をとどろかせる蕎麦打ち名人、高橋邦弘さんが2001年、広島県豊平町(現在の北広島町)に「達磨(だるま) 雪花山房」を構えて話題になったことをきっかけに、蕎麦の製粉に興味を持つ。

 県庁での仕事はスポーツ振興だったので、スポーツ研究のために筑波大学大学院で国内留学するが、蕎麦の食べ歩きをしているうちに、どんどん蕎麦に魅せられ、ついには退職。東京とつくば市の蕎麦店で修業した後、故郷の広島に戻り、2010年3月に蕎麦店を開業した。

 前田さんは全国の農家を回り直接、玄蕎麦(黒い固い皮がついている蕎麦の実)を仕入れている。それを丁寧に脱皮機にかけ、電動石臼で製粉している。蕎麦に対する姿勢は半端ではない。

 以前、「蕎麦きり 吟」を訪ねたときのこと。前田さんにおまかせで酒肴をお願いしてみた。最初に出てきたのは「吟醸とうふ」。大豆の甘味たっぷりで、「十旭日無濾過(ろか)生原酒」がよく合う。続いて「焼き蕎麦味噌」。蕎麦の実を焦がした香ばしい香りと、味噌の旨味(うまみ)で酒が進む。そして「だし巻き卵」。ふわっとした卵の食感の奥から、だしのうま味が口の中に広がってきた。

大豆の甘味たっぷりな「吟醸とうふ」
「焼き蕎麦味噌」は香ばしい香りと味噌の旨味で酒が進む

 しめは「せいろ」。凛(りん)とした土の香り豊かな蕎麦は、さらにもう一杯の酒が進む。飲みたくさせてくれる。種物も「かけ」「花巻」「山かけ」「鴨南蛮」とそろっていて、いずれもうまい。

 広島に来る機会があれば、かならず「蕎麦きり 吟」を訪問するようにしている。遠い地で味わう江戸前の正統蕎麦店酒。まさに旅に至福のひとときを付け加えてくれる。

◇ 蕎麦きり 吟 広島市南区段原1-17-8 082-236-3269 水曜定休

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