オリパラ

スポーツイノベーション

「Arai神話」誕生、きっかけは創業社長の洞察力 ヘルメットの科学(2) 北岡哲子日本文理大学特任教授

日経テクノロジーオンライン

2017/2/20

 1958(昭和33)年に、新井広武社長は衝撃吸収用のライナーの素材を、それまでのハンモックコルクから耐衝撃特性が高い発泡スチロールに変更した。FRP製帽体と、発泡スチロール製ライナーの組み合わせは世界で初めてだったが、それが後に、乗車用ヘルメットに関する基本構造として“世界の基本”となった。1959(昭和34)年には日本初のオープンフェースヘルメットを誕生させ、1962(昭和37)年には慶応大学工学部卒業後、米国に留学していた理夫氏が帰国してアライに入社。1963(昭和38)年には、日本で初めてSNELL規格に適合したヘルメットを開発、とストーリーは進む。

 1976(昭和51)年になって、新井社長は「Bellよりもアライを信頼してほしい」と、社長自ら世界一への挑戦を宣言した。「大きな会社にしたいのではない。最も信頼できるヘルメットを作るのが目的」としていた。1番を目指せば、それまで以上に品質改良に取り組むことになるからだった。しかし、この年は社屋が火事に遭うなど、アライにとって悪戦苦闘を強いられる年だった。

 1977(昭和52)年、米国の選手にAraiをかぶってほしいと、契約交渉のアプローチをした。しかし、世界で無名のアライはバカにされ、目の前でヘルメットを解体され「良くできてるじゃん!」と言われただけで追い返されたそうだ。

 この悔しさをバネに、国内4選手と契約を結び、そのうちの3選手が契約の翌月のF1レースで世界に躍り出たことで、風向きが変わった。1978(昭和53)年、テッド・ブーディー選手との契約により、新井社長念願の海外選手へのヘルメット供給が実現、ついに海外レースに参入した。しかも、ブーディー選手は、Araiをかぶって優勝した。

■「サーキットの狼」に登場

 サクセスストーリーの大きな要因は、ヘルメットの品質が良いのはもちろんだが、もうひとつ、レースに焦点を絞った戦略の勝利ともいえる。

 世界一安全なヘルメットだと信用してもらうためには、それを証明しなければならない。しかし、それは極めて困難なこと。現実の事故の条件は多様なので、一定の条件に設定する試験で良い数値を出したとしても、安全性の証明としては不十分だ。かといって、現実に事故を起こして試すわけにもいかない。むしろ現実には、安全性を証明する機会がないことこそがベストだ。

 そこで理夫社長は、街中での乗車よりも転倒する可能性が高く、ヘルメットの安全性を理解し、かつ最も必要としているレーサーにかぶってもらい結果を出せれば、安全性や信頼性が多くの人に伝わるのではないかと考えた。レース界に参入することを目指した理由は、そこにあった。

 そして、結果的にAraiをかぶった数々の選手がレースで優勝するという幸運に恵まれ、社長の予想をはるかに超える、絶大な宣伝効果を得ることができた。アライ製ヘルメットの安全性は広く知られるようになり、“Arai神話”を生むまでになった。「普通なら転んで頭を打って気絶するような場面でも、Araiをかぶっていれば気絶せず、無傷で済む」と。

 その頃、漫画雑誌「少年ジャンプ」で「サーキットの狼」の連載が始まり、主人公がAraiをかぶって活躍したこともあり、ブランド浸透は一気に加速した。

 1983(昭和58)年ごろには、レーサーレプリカヘルメットがブームになった。同年9月、ついにAraiをかぶるフレディー・スペンサー選手がGP500のチャンピオンになった。GP500はバイクの世界選手権であり、最高峰の選手権といっても過言ではない。日本製ヘルメットが初めて世界の頂点に立った瞬間だった。

(次回に続く)

(日本文理大学特任教授 北岡哲子)

[日経テクノロジーオンライン2016年11月18日の記事を再構成]

オリパラ新着記事