電車でも気分一新 ソニー、驚きのアロマスティック
香りは拡散する厄介なもので、じっくり楽しむためにはそれなりに気を使う。古くから知られているのは、室内でお香をたくこと。最近ではアロマオイルをディフューザーで拡散したりする。ただ外だと周りに迷惑がられることもあるし、たくさんの匂いが入り混じって、好きな香りを選んで楽しむなんて不可能だと思っていた。
それを可能にしたのが、ソニーの「アロマスティック」だ。これは、香りを持ち歩いて、好きなときに好きな香りを選んで、周囲に迷惑をかけることなく楽しめる、いわば「香りのウォークマン」。かつて、ウォークマンが音楽を外に持ち出したように、この製品は、香りを持ち歩くことに成功した製品なのだ。
アロマスティックの見た目は、マグライトかスティックのりのよう。何の製品なのか全く分からない。手に取っても、まず分からない。しかし、説明して手渡すと、すぐに使え、そしてほとんどの人が驚く。
この製品の特徴は"香りが簡単に切り替わり、周りに拡散しない"ことだ。試した人は「本当に香りが切り替わる」と、夢中で香りを切り替えてくんくんと嗅ぐ。周囲に香りが広がらず、熱もなく、音もほとんど出ないから、電車の中でも使える。「これがあると、生活の中での不快感が相当減りそう」という女性もいた。
香りは、英国のニールズヤードレメディーズ社と提携。日本にアロマを最初に持ってきたブランドであり、世界中で人気が高い同社は、丁寧なブランディングによってイメージと品質を守っている。「香りとテクノロジーは交じらないと思っていたが、熱を使わない安全性と香りを自由にするというアイデアに共感してもらった」と開発したソニー新規事業創出部OE事業室の藤田修二氏は話す。この提携により、アロマスティックは、高級アロマブランドの香りを安価に楽しめる方法にもなった。
香りを瞬時に変えられる楽しさが男性にウケた
「香りで気分を変えたいという需要は女性がメーンだろうと、開発時のテストやタッチ&トライイベントなどを女性中心に行い、十分な手応えを感じていた」と藤田氏。メーンターゲットは、30~40代の女性オフィスワーカー。長時間の仕事の息抜きに使ってもらうという考えだったが、インターネット上で資金を募るクラウドファンディングの結果、意外にも男性ビジネスパーソンに受けていることが分かったという。女性は香りそのものに引かれているのだが、男性は、機能の斬新さに引かれる人が多いそうだ。
「最初は20種類の香りが切り替えられるようにしていたが、あまり評判が良くなくて、アンケートの結果、5種類になった」と藤田氏。今後の展開を聞くと、「香りは展開がすごくいっぱいある」と笑う。眠気覚ましなどの機能的な方向、季節の香りなどによる記憶を喚起する方向、アーティストとのコラボレーションなど、さまざまな領域で使える製品なのだ。
筆者の周囲、特に男性からは、「焼き肉やうなぎの香りが欲しい」「子どものころの夕焼け空の帰り道の香り」など、むちゃくちゃなリクエストが飛ぶ。しかし、彼らも、通勤途中や仕事の合間に好きな香りが楽しめることに、とてもリラックス効果を感じているという。筆者もクセになっていて、原稿を書いていてふと手が止まったときなどに、ジャスミンの香りで肩の力を抜くのが習慣になってきた。
使い方は簡単。ヘッド部分を回転させて好きな香りにセットしたら、鼻に近づけてボタンを押す。これだけで香りが楽しめるのだ。カートリッジの交換も、カートリッジの頭をプッシュするとカートリッジが少し飛び出すので、それをつまみ上げるだけだ。
香りのエンターテインメント化を実現
アロマスティックは、ソニーの新規事業創出プログラム「Seed Acceleration Program(SAP)」のひとつとして誕生した。このSAPに応募し、アロマスティックを開発することになったきっかけについて藤田氏は、「ソニー先端マテリアル研究所にいるときに、業務外活動として、3Dコンテンツをより没入感を持って見せる要素の一つとして、嗅覚に訴えることを考えていた。香りなら空気感が伝えられるし、雨が降ったあとの香りを感じたときのハッとする感覚をエンターテインメントの中に取り込みたかった」と語った。
この段階で、香りを楽しむために使うというアイデアの根本はでき上がっていたのだが、「コンテンツの中で使うのはハードルが高く、世の中に出すのにも時間がかかる」と、別の道を考えつつ、藤田氏は社内留学制度で渡米。一時期、香りの問題は棚上げになる。そして、留学から帰国すると、ソニーの中にSAPが立ち上がっていた。既存の事業領域にあてはまらない新規事業アイデアを提案でき、ソニーグループ社員であれば誰でも手を挙げられ、オーディション審査を通れば事業化にチャレンジできるというシステムは、とても魅力的に映ったという。
「研究者だったので、一度、製品開発をしてみたかった」と藤田氏。そこで、留学前に考えた香りのエンターテインメントについてアイデアを詰め始める。
「アロマは、それ自体完成されたコンテンツで、それだけで十分に楽しめる。図書館に行って1日中考えていたが、部屋の中で香りは楽しめるけれど、消したり切り替えたりはできないとか、いつでもその香りが嗅ぎたいわけではないとか、そのときどきで香りを楽しめれば、ムードを変える製品ができるのではないかと考え、1日でコンセプトを書き上げた」(藤田氏)
藤田氏が1日で書き上げた企画がSAPオーディションを通り、製品化することになった。この時点で、現在の「アロマスティック」の原型は出来上がっていたが、人間の嗅覚に訴えることは簡単にはできない。それを成功させてしまったのは、藤田氏が分子生物学の博士で、化学と生物学に精通していたからだった。
香りが拡散しない秘密は?
開発が最も大変だったのは香りをカートリッジに詰める方法だったと藤田氏は言う。香りは揮発分子なので、拡散しないようにせめて1カ月は保持しながら、取り出し自由にしなければならない。また、香りを自由にするツールだから、取り扱いやカートリッジの交換などは簡単でなければならない。
ワンタッチで交換可能なカートリッジは、中が小さな部屋に分かれていて、そこにそれぞれの香りを封じ込めているのだが、「部屋が小さすぎると空気が通らなくなって、香りを噴出できなくなるし、大きすぎると香りが保持できない。それが両立できる構造を考えたが、射出成型では作れなくて量産が難しかった。そこに、ちょうど、社内では開発段階だったマイクロ光造形の3Dプリンターがあり、これなら作れそうというので、そちらの開発を進めて、量産機を作った」と藤田氏。発売までのスケジュールはあまりにも無茶で、周りからはクレイジーと言われていたという。
香りが、スイッチを入れたときはしっかり香るのに、拡散せずに消えるのはなぜか。「香りは最初のインパクトがあればかなり感じられるものなので、後は一気に希釈させるようにした」と藤田氏。アロマスティックが一度に噴射する香りはかなり少量。小さなカートリッジに5種類もの香りを閉じ込めて、約1カ月も持つ秘密は、そういうところにもある。
実際は、スイッチを押している間、噴出されるので、好みで量を自分で調整すればよいのだが、筆者が使っている限りでは、シャッと1~2秒くらいスイッチを押すだけで、ムードを変えるのには十分だ。また、部屋の中などでたっぷりと香りに浸りたいなら、裏技がある。スイッチのダブルクリックで、香りが30秒間噴出され続けるのだ。
アロマスティックを使っていると、香りを好きなときに味わって気分を変えるということが、もはや習慣になってしまった。家でリラックスして、というより、考えごとをしながら歩いていて、ちょっと気分を変えたいとき、家を出るとき、寝る直前、嫌いな匂いを嗅いでしまったときや商談の直前などで使うと気が引き締まったり、ラクになったりするのだ。音楽もいいけれど、一瞬で気分が変わる劇的な面白さは、アロマスティックで初めて体験した。
(文・写真 納富廉邦)
[日経トレンディネット 2017年1月5日付の記事を再構成]
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