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私の履歴書復刻版

墓もないディーゼル博士 石庭苑寄贈を思い立つ ヤンマー創業者 山岡孫吉(17)

2017/1/12

 明治生まれのヤンマー創業者が語る「私の履歴書復刻版」も残すところあと3回。今回からはディーゼルエンジンの発明者、ルドルフ・ディーゼル博士を顕彰する庭園を寄贈することになり、この上ない栄光に包まれた経緯を感動を持って語ります。

石庭苑を寄贈――“他人の胸像”を拝む 墓もないディーゼル博士

 小型ディーゼルエンジンを開発して、事業家として一応成功した私が、ディーゼルエンジンの発明家であるドイツのルドルフ・ディーゼル博士を、大先達としてかねがね尊敬するとともに、深く感謝もしていたことはいうまでもない。そして博士の偉大な功績をたたえるために、昭和32年(1957年)の秋、博士ゆかりの地である西独アウクスブルク市のビッテルスバッハ公園に、記念石庭苑(ていえん)を寄贈したのであるが、そのいきさつがまた少しおもしろい。

 そもそもは28年(1953年)に私が2回目のヨーロッパ旅行をした際、横井技術部長、山岡製造部長、大塚技術担当重役らの技術スタッフ、京大の長尾不二夫工学博士および二男の山岡淳男らとともに、アウクスブルクのマン社をたずね、間違って他の人の胸像を拝んだのがキッカケである。マン社はディーゼル博士が約60年前に、ここで初めて新しい熱機関、ディーゼルエンジンの製作に成功したという、ゆいしょある会社である。そして私は20年前に、この会社のPR映画を見て、小型ディーゼルの製作を思い立ったのだった──。

 同社の入り口でりっぱな胸像を見て私は「これがディーゼル博士の胸像だな」と早合点して深く敬意を表したところ、実はこの胸像は、マン社の初代社長だったのである。そこで博士の銅像についてたずねると、マン社の重役は、博士の銅像はおろか、博士がドーバー海峡で船上から投身自殺したため、自殺をきらうカソリックではお墓さえもつくられていないと教えてくれた。

 これを聞いて、私は驚いた。ディーゼルエンジンが世界の産業に大貢献している今日、どんな理由があるにもせよ、その発明家である博士の銅像もお墓も、生国にさえないとはあまりにお気の毒である。博士のあったおかげで事業を築くことのできた一人として、私が「博士の銅像を寄贈させてください。ビスマルクの銅像に負けないくらいの大きさのを、博士にゆかりの深いこのアウクスブルクの駅前に建立したい」と提案すると、マン社の重役はたいへん喜んで、アウクスブルク市へ私の気持ちを伝えてくれた。

 これが話の始まりで、私は帰国後、日独協会の武者小路公共氏にお世話を頼んで、寄贈する銅像の建立計画を進めてもらったのであるが、日独協会とアウクスブルク市とで協議を重ねるうちに、最初の銅像が、いつの間にか日本庭園にふりかわってしまった。そして、パリ帰りの建築設計家板倉準三氏の設計で、兵庫県猪名川の上流の石を使った石の庭を、ビッテルスバッハ公園内につくるというのである。

 私は時代遅れかなにか知らぬが、ビスマルクと同じくらいの銅像を、と考えていたのに、よりもよって石の庭なんぞに変わったと聞いてガッカリした。それに石なら猪名川あたりのものをわざわざ運ばなくても、ライン川にはいくらでも奇岩名石があるのに……とも思って不満だったが、すでに武者小路氏に万事お願いしてしまったあとだし、みなが大喜びしているので、なんだか文句が言いにくくなり「まあ仕方がない」とあきらめた。それから私は2年ばかり病気をしたが、計画は進んで、西宮市の阪神国道沿い、緑丘の仮設場で仮造園が始まり、やがて31年(1956年)12月10日には、西独大使代理、同領事、その他知名人600名を招いて仮設披露式を行なうところまでこぎつけた。

 できあがってみると、ディーゼル記念石庭苑は実にみごとだった。幅22メートル、長さ44メートルで、常緑樹の生けがきに囲まれ、大小56個の石と芝生を配した石庭苑は、日本一の設計家と言われる板倉氏が、山口の常栄寺や京都の竜安寺などの石庭にヒントを得、それに近代感覚を盛り込んだ苦心の作だけに、優雅な中にも明るさがあって、見れば見るほどいい。「銅像よりこの石庭苑のほうがずっとよかった」と私はすっかり気が変わり、アウクスブルク市への贈呈の日が待ち遠しくなった。

 この連載は、1959年(昭和34年)12月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日では不適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

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