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キャリアの原点

名門を渡り歩いたエリートが直面した人生の谷間 BCGデジタルベンチャーズ パートナー 平井陽一朗氏(上)

2016/12/15

 東京大学を卒業後、三菱商事、ボストン コンサルティング グループ(BCG)、ウォルト・ディズニー・ジャパンと名門企業を渡り歩き、一見すると順風満帆な人生を歩んできた平井陽一朗氏。じつは、35歳で東証1部上場企業の社長に就任するも、2年間で退任。1年間の“浪人”生活を経験するなど、転落の危機に直面したことがある。そんな経験がBCGのデジタル部門子会社、BCGデジタルベンチャーズの東京センターを率いる現在へと、どうつながっていったのか。華やかなキャリアの裏側にあった、知られざる挫折体験を聞いた。

(下) 「社長失格」を経てわかった働く上で大事なこと>>

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 占いコンテンツを手掛けるザッパラスの社長を退任したのは、2011年夏のことでした。人生初の転職活動を経験したのも、その時。ふと思い立ち、同じように路頭に迷っていた友人数人と連れ立って、東日本大震災のあった東北へ行きました。

 東北で何をしていたかですか? 

 ひたすら瓦礫(がれき)の撤去です。来る日も来る日も瓦礫を片付けながら、これからどう生きていこうか、と考えていました。

■ダメ元で面接を受ける

 それでも、最初のうちはのんきでした。いくつか良いお話もいただいていましたし、まあ、焦らずにピンと来た所があったら就職しよう、というくらいにのんびり構えていました。ところが、なかなか就職先が決まりません。私にもおごりがあったのでしょう。面接途中でけんか腰になってしまったり、少しピンと来た所は土壇場で先方の都合などもあって立ち消えになったりと、うまくいかないことが立て続けに起こり、さすがに焦り始めました。

 収入ゼロの状態が1年も続けば、蓄えも底を突きます。私生活でもその前年に離婚し、そもそもの蓄えも少なかったため、家を引っ越し、最後には車も売りました。どん底の状態にまで落ち込んだ時に、あることを思い出したんです。そう言えば、社長を退任した直後、BCGの先輩が「ランチでも行こう」とメールをくれていたんだっけ、と。

BCGデジタルベンチャーズ パートナー 平井陽一朗氏

 BCGに戻る選択肢は、それまで考えていませんでした。ただ、先輩がくれたメールのことを思い出した時、かつて一緒に働いていた人たちのことが頭に浮かび、何をやるかよりも、誰と働くかを軸にして再就職先を考えてもいいのかもしれない、と思いました。とはいえ、メールをもらったのは随分前のことでしたし、半ばダメかもしれないと思いながら面談に行ったところ、幸運にも採用になりました。その瞬間はとにかく、感謝の気持ちしかなかったですね。それと、毎月お給料が入ってくるということがまず、うれしかった。

 その時につくづく考えたのは、キャリアがどうのこうのとか、自分のやりたいことを追求するっていうのは、すごくぜいたくなことなんだなということです。できることをやる。求められたことを精いっぱいやる。その対価としてお金をいただく。それで生活が成り立っていくということは極めて尊く、立派なことだったんだと気づきました。

■映画を1日1本見ていた学生時代

 じつは僕、映画が大好きで、学生時代は1日1本は必ず見ていました。レンタルビデオの全盛期でしたから、新作が出たら、とりあえず借りる。黒沢明監督の『七人の侍』など、時代劇も好きでした。高校時代に米国留学していた時、現地の友人はみんな知っているのに日本人の僕が見たことがないのに気がついて、それから意識して、黒沢監督の作品を見るようになりました。

 そのころは、エンターテインメントの世界に入りたいと思っていたんです。でも、就職先には三菱商事を選びました。一応、テレビ局の内定ももらっていたんですけれど、若いのに振り切れなかったですね。打算もありました。三菱商事に入った方がお給料も良さそうだな、とか。当時、三菱商事は米国の衛星放送、ディレクTVの事業を手がけていましたから、それに携われたら面白いかな、と思ったんです。

 甘かったですね。配属されたのは希望とはまったく違う、機械グループの自動車本部。人生初の挫折と言えば、ここだったかもしれない。今はどうかわかりませんけれど、機械グループというのは当時、三菱商事の中でも非常に「おカタい」部署で、メールやファクスにもいちいち「貴信拝承」と回答するような文化がありました。

 メールで自分のことを「小生」と称したり、非常にありがたいことを「幸甚に存じます」と表現したり。米国育ちの僕の目から見ると、「江戸時代か?」と思えるような慣習がたくさん、残っていたんです。

 でも、最初に入った会社でしたから、いつの間にかそれが当たり前と思うようにもなっていきました。改めてそうじゃないんだと認識したのは、BCGに転職した時です。「なんか君の文章、カタくない? もっと普通でいいから」と先輩に言われて、「そうだよな」と。

「とにかく、人と話す」

 そのころはプレゼンテーション資料作成ソフトの「パワーポイント」なんて使ったこともなかったし、表計算ソフトの「エクセル」はただのマス目だと思って、計算機でたたいた数字をわざわざ打ち込んでいたくらいでしたから、それはそれで、かなりのカルチャーショックを味わいました。

 もちろん、社会人としての基礎能力と商売の厳しさを教えてもらったという意味で、三菱商事に勤務したことは、僕の原点になったと思っています。

■念願かなってエンターテインメント事業に携わる

 ずっとやりたかったエンターテインメントの世界に本格的に携わることができたのは、30歳でウォルト・ディズニー・ジャパンに転職した時です。ディズニーが新たにCSチャンネルをつくるというので、それを担当しないかというオファーが舞い込んできました。条件など関係なく、すぐに飛びつきました。お給料はかなり減りましたが、まったく気になりませんでした。

 まだない事業を立ち上げるわけですから、部下は誰もいなくて、何人かのボスを兼務するアシスタントの方が1人いるだけ。社内の営業や編成、制作、財務などいろいろな担当者を集めてプロジェクトを立ち上げて回したり、調整や交渉ごとを担当したり、という仕事でした。

 当時の僕の上司は、ディズニー内外において数々の事業をターンアラウンド(再生)させたり、成功させたりと、華々しい実績のある米国人でした。日本文化にも精通し、人間的にも尊敬できる方で、現在も大活躍されています。

 ある時、僕はその上司にこう尋ねたことがあるんです。「新しい会社や組織に行ったら、まず何をしますか?」と。そうしたら、彼はこう答えました。「とにかく、人と話すんだ」

 32歳でオリコンの副社長にスカウトされた時、僕はそのアドバイスを愚直に実践しました。全役員、それと当時、部署にいた約40人の社員に個別に30分から1時間くらいの時間をもらい、その人たちが担当している業務について事細かく教えてもらったり、彼らが感じている課題・会社が向かう方向性はどんなふうなのかについての話をしたりしました。

 じつは、僕、あまりノートを取らない方なんです。でも、その時はノート3冊分が全部埋まるほどのヒアリングをしたくらい、真剣に準備をしました。

平井陽一朗(ひらい・よういちろう)
1974年東京都生まれ。米国の公立高校を卒業後、東京大学経済学部卒業。三菱商事を経て、ボストン コンサルティング グループ(BCG)入社。その後、ウォルト・ディズニー・ジャパン、オリコン副社長兼最高執行責任者(COO)、ザッパラス社長兼最高経営責任者(CEO)を経て、再びBCGに入社し、現在は同社パートナー&マネージング・ディレクター。BCGデジタルベンチャーズの東京センター立ち上げを主導。主に大企業のデジタル分野の新事業構築に取り組んでいる。

(ライター 曲沼美恵)

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