チェンバロの高田泰治 バッハを年末恒例に
J.S.バッハの鍵盤楽器のための大作「ゴルトベルク変奏曲」がベートーベンの「第九」のように年末の風物詩になる。チェンバロ奏者の高田泰治さん(39)は11月にこの曲のCDを出し、12月2日には東京で同曲の演奏会を開いた。来年以降も東京公演を年末恒例にする。ドイツでも活躍する高田さんが演奏を交えて「ゴルトベルク」の魅力を語る。
バッハの「ゴルトベルク変奏曲BWV988」は最初と最後のアリアと30の変奏から成る計32曲、演奏時間約80分の長大な変奏曲集だ。正式名称は「2段鍵盤のチェンバロのためのアリアと様々な変奏曲から成るクラヴィーア曲集」。実際にはチェンバロのほか現代ピアノでも演奏される機会が多い。
■銀の音色がきらきら躍る「ゴルトベルク」
一般に名盤といわれる録音は、カナダ出身の世界的ピアニスト、グレン・グールド(1932~82年)がいずれも現代ピアノで弾いた1955年デビュー盤と81年盤だろう。現役ではカナダの女性ピアニスト、アンジェラ・ヒューイットさんがイタリア製の現代ピアノ「ファツィオリ」で弾いたCDや2015年4月の王子ホール(東京・銀座)での公演が記憶に新しい。チェンバロでも名盤は多数あり、オランダのグスタフ・レオンハルト(1928~2012年)による録音が筆頭に挙がりがちだ。
鍵盤楽器奏者の試金石であり、名演や名盤がひしめく「ゴルトベルク変奏曲」を、高田さんはどう弾くのか。12月2日、東京文化会館小ホール(東京・上野公園)で高田さんの同日公演に向けたリハーサルを聴いた。銀の音色がきらきら躍る「ゴルトベルク」だ。チェンバロの響きは明瞭で、一音一音の輪郭がくっきりと浮かび上がる。現代ピアノのような強弱の表現には限界があるが、きめ細かい音の躍動と幾何学模様を鮮明に描いている。
高田さんは神戸市生まれ、大阪音楽大学大学院を卒業し、関西を拠点に演奏活動を始めたアーティストだ。大阪市が本拠地の古楽合奏・合唱団、日本テレマン協会の中核となる鍵盤楽器奏者でもある。チェンバロだけでなく、古い時代のピアノであるフォルテピアノも弾く。「大学時代までは現代ピアノしか弾いたことがなかった。フォルテピアノを弾き始めたのは24~25歳の頃。チェリストと共演するリサイタルで、急に現代ピアノではなくフォルテピアノを弾いてくれと頼まれた」と振り返る。これを機に「さらに前の時代のチェンバロを勉強したくなった」と話す。
チェンバロは現代ピアノと音色が全く異なる。フォルテピアノは両者のほぼ中間の響きといえる。音のつながりや区切りの変化による旋律の表情付け、いわゆるアーティキュレーションで違いが出る。「細かいアーティキュレーション、あるいは一つのフレーズに表現をより多く盛り込むことについては、現代ピアノやフォルテピアノよりもチェンバロの方がもっと顕著にできる気がする」と高田さんはチェンバロで「ゴルトベルク」を弾く理由を語る。チェンバロは「バッハが作曲した当時の仕様の楽器」でもある。
チェンバロに向かう高田さんは、背筋を伸ばして不動のまま、表情も変えない。ただ指先だけが、現代ピアノとは白黒反転の鍵盤上を軽やかに、リズミカルに動き回る。「ゴルトベルク変奏曲にはたくさんリズムの遊びがあり、冗談のつもりかと思うようなフレーズも出てくる。モーツァルトの音楽にも通じる子供っぽさが出てきたかと思うと、急に深刻になったりする」。冒頭のアリアは比較的遅いテンポで、じっくりと旋律を歌い上げる。続くいくつもの変奏は様々なダンスミュージックだ。チェンバロのシャープで軽やかな音色が分散和音をデジタルビートのように響かせる。かと思うと1拍目に強いアクセントを入れるなど、古楽でありながら非常にモダンな演奏といえる。
■様々なリズムの美しい幾何学模様
11月25日にリリースされたCD「高田泰治/J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988」(発売・販売:ナミ・レコード)では、チェンバロによるアーティキュレーションのきめ細かな妙味と繊細な音色の移ろいが鮮明に聴ける。同曲には、カイザーリンク伯爵という人物が不眠症対策のためにバッハに作曲を依頼したという逸話がある。しかし高田さんの演奏にかかると、この曲は様々なリズムが美しい幾何学模様を描きながら躍動するダンスミュージックに変わる。銀色の旋律はけして感情的にならず、軽やかに舞い続ける。クリアな低音は重々しくなく、ガラス製のダンスフロアでステップを踏むかのようだ。
「弾くたびに新たな発見がある。もうレコーディングしてしまっていいのかと思った」と高田さんは言う。彼が所属する日本テレマン協会では、毎年末に高田さんのチェンバロによる「ゴルトベルク変奏曲」の東京公演を開いていく考えだ。公演を重ねていくにつれて、将来的には2回目、3回目の同曲のレコーディングが達成される可能性がある。
高田さんがメンバーの日本テレマン協会は、指揮者でオーボエ奏者の延原武春さんが1963年に立ち上げた。延原さんが音楽監督を務め、テレマン室内オーケストラを中心に大阪や東京で定期公演を続けている。延原さんがバロック時代の作曲家テレマンの作品に出合ったのが命名の理由という。1990年ごろから本格的に古楽器を使い始めた。今では指揮者でオルガン奏者の鈴木雅明さんが率いるバッハ・コレギウム・ジャパンとともに、日本の東西を代表する古楽合奏・合唱団だ。同協会代表で作家の中野順哉さんは高田さんについて「テレマン室内オーケストラで中核となる鍵盤楽器奏者」と話す。
■バッハゆかりのドイツで育む音楽性
「鍵盤楽器奏者は一人で取り組むことが多いが、テレマン室内オーケストラではいろんな楽器や合唱団との組み合わせで演奏する機会があり、演奏家として恵まれた環境にいる」と高田さんは言う。一方で高田さんは年間の半分をドイツでの演奏活動に充てている。バッハゆかりの地域でバロックバイオリン奏者らと共演し、地元で高い評価を受けている。「彼はドイツのある地方のローカリズムの中でも独自の音楽性を育んでいる。そんな彼と共演するのを楽しみにしている協会メンバーも多い」と中野さんは指摘する。
年末の演奏会といえば「第九」ことベートーベンの「交響曲第9番ニ短調《合唱付き》」が恒例だが、チェンバロ1台で奏でる「ゴルトベルク変奏曲」も「第九」と肩を並べる演奏時間と深みを持つ。バッハへの造詣の深いチェンバロ奏者がたった一人でどこまで「ゴルトベルク」を「第九」並みの年末の風物詩に育てられるか。これからが聴きどころだ。
(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)
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