評判が評判をよぶ 加賀屋「おもてなし」の秘密
女将が語る「笑顔で気働き」(下)
石川県七尾市の老舗旅館「加賀屋」の女将、小田真弓さんは小田禎彦氏(3代目加賀屋社長、現相談役)と結婚してから加賀屋で仕事を始めた。旅館業は2代目社長の与之正氏とその妻である孝(たか)さんから学んだ。評判が評判をよぶ加賀屋流のおもてなしの土台は、孝さんが作り上げたという。どのようにできてきたのだろうか。
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最後の1人まで
母は生前、京都・嵐山の「錦」という料理屋へ出かけたことがあります。きちんと和服を着こなした京風の女将が、お部屋からお部屋へと挨拶に回られました。女将の年齢が92歳だと聞き、「よくやられますね」と言ったところ、「あなたを見習ったのですよ」と言われたそうです。
何度か加賀屋へお越しいただいた際に、母がすべてのお部屋にお酌をして回っていたのをみて、まねたというのです。旅館や料亭で、女将が部屋を回ってお酌をすることは、今ではそんなに珍しくないことかもしれません。今では確認するすべがありませんが、どうも最初に始めたのは、母だったようです。1945年(昭和20年)の終戦直後、和倉温泉の中では加賀屋がいち早く営業を始めることができました。
陸軍の特別利用施設となり、将校の保安所としても使われていたせいもあるのでしょう。週末にはアメリカの駐留軍の将校さんが来て、宴会をするようになりました。
最初は食事に毒が入っているのではないかと警戒して缶詰をもちこんでいたようですが、次第にうちとけてきて、加賀屋の料理を食べながらお酒を飲んでいただきました。その後、石川県庁の要職についていたアメリカ人もお越しになりました。「加賀屋へ行けばすき焼きが食べられる」と評判でした。
母はあるとき、石川県知事(当時)の柴野和喜夫さんが、アメリカの方たちを集めた宴会の席で、一人ひとりにお酌をしている場面に出くわしました。丁寧にごあいさつをしながら、お酒をついでいたそうです。「あんなに偉い人ですら、みんなにお酌をするのだから、私もそうしないといけない」と心に決めたそうです。
以来、母は、宴会ではすべての方に、そして全部の客室を回って、お酌をするようになりました。特に宴会では、途中でトイレに立たれる方もいます。戻ってきたらもう女将がいなくて、「私にだけついでくれなかった」となると、お客様は気分を害されます。母はどのお客様がお立ちになったかもすべて記憶しておき、戻られると必ずお酌に行っていました。低い姿勢で駆け寄っていって、「ご出張でしたのね」といって、お酒をつぎます。
私も母に習って、宴会ではお一人一人にお酌をしました。しかし、スピードが全然母に及ばず、その後に、すべての部屋を回るなんて到底できません。しかも、母のお酌は非常に丁寧で、お客様に不快な気持ちを抱かせません。
そこで、母にコツを尋ねました。すると「お客様の真正面に座ると、どうしてもお話が長くなってしまう。だから、2人のお客様の間に座ればいいのよ」と教えてくれました。お2人の斜め前に座り、左右のお客様に挨拶をしながら、お酌をする。なるほど、こうすれば、確かに早く回れます。正面に座ると、お客様のほうも気を遣って、いろいろと話しかけてくださいます。大変ありがたいことですが、それが重なると、時間がどうしても長くなってしまいます。
お客様の前に出るときは、目線はお客様よりも低く、というのが鉄則です。母は正座したままで、畳から膝を離さずに移動する「にじり膝」を繰り返しました。着物は擦り切れて、正座ができなくなり、晩年は車いすでの生活になってしまいました。それでも、母の姿勢があったからこそ、お客様全員に感謝の気持ちを表す加賀屋のやり方が確立されたのだと思います。
目先の利益より将来のお客様
母は夕食の忙しい時間帯に、よく調理場に足を運んでは、「あの部屋のお料理、もっと豪華にできないか。差し替えてください」「刺し身が足りないよ。量を増やしてあげて」と細かく指示をしていました。時にお客様に対して、そこまでしなくても、というくらいのお土産を持たせることもありました。
これは母なりの計算があったようです。いいお料理や手厚いおもてなしを受けたお客様は、「よし、もう一度加賀屋へ行こう」と考えてくださるはずです。さらに、ご家族や周囲の方々に、「加賀屋はいい旅館だった。料理も豪華だったし、サービスもよかった」とおっしゃっていただけるでしょう。
それを聞いた方々は「そうなのか、だったら私も一度行ってみようか」となる。その積み重ねで、お客様が増えていくという考え方です。
お客様の1泊、1食ずつのコストを綿密に計算して、そこでもうけを積み重ねていくという手もあります。地道に収益をあげていく観点でいえば、そちらの方がいいのかもしれません。
でも、母は時には採算を度外視したサービスをしてお客様の数を増やして、長い目で見て収益を向上させていくという考え方でした。「加賀屋でいい1日を過ごしたお客様が、きっといいお友達やお仲間に紹介してくださり、その人たちもいつか来てくださると願っている」。母はこんなふうに思いを書き残しています。客室係が、誕生日や記念日にプレゼントをお渡ししたり、様々なサービスをさせていただくのも、似たような考え方に立っています。目の前のお客様だけでなく、もっとたくさんの方に来ていただきたい。そんな心がお客様に伝われば、また新しいお客様を呼んでいただけるだろう、という気持ちを持っています。
私は嫁いできた後に、父と母が大声で口論をしているのをよく聞きました。何をもめているのだろう、と思って耳をそばだてると、「あんなに追加の料理を出したら、赤字になるじゃないか」「お前のやっていることは、もうけを減らしているだけだ」と父が怒鳴っています。母は「お客さんが加賀屋の評判を広めてくれる。それでいいじゃない」と反論していました。
父はユニークな発想をするアイデアマンである一方、数字に厳しくて細かいという側面も持ち合わせていました。観光のPRには、そのアイデアをいかんなく発揮しました。古い話になりますが、1956年(昭和31年)に能登を舞台にしたNHKのラジオドラマの放送を働きかけ、「忘却の花びら」という番組ができあがりました。のちには映画にもなり、能登の美しい自然が見る人々の心をとらえました。また、松本清張さんが書いた小説「ゼロの焦点」が映画化する際のロケにも、協力しました。能登金剛の「ヤセの断崖」が有名になりました。こうしてメディアを使いながら、能登を宣伝し、結果的に加賀屋のお客様を増やすという戦略を持っていました。
その一方で、社内にいるときは、本当にお金を厳しく管理する人でした。部屋の回転率、食事のコストなどを細かく計算して、事業の計画を立てていました。調理場に運び込まれたしいたけの数まで記憶していて、仕入れの業者を驚かせることもあったといいます。
仕事が気になって夜も眠れないのか、館内を白いガウンを着てよく歩き回っていました。足音をさせずに歩くので、ばったり会った社員は「熊が出た!」と驚いていました。館内の点検をしながら、加賀屋の経営について考えをめぐらせていたようです。頭の中で作戦を考え、積んでは崩し、積んでは崩しの繰り返しだったのでしょう。
緻密に物事をくみ上げていく人ですから、その場の判断で料理やサービスを変えていく母のやり方は、なかなか理解しがたかったのだと思います。「アメに砂糖をつけてどうするんだ」という言い方で、母に詰め寄っていました。
一方、母は、乱暴にいえば目先のコストを顧みることなく、目の前のお客様を喜ばせることに全力を注ぎます。父と母の2人の絶妙のコンビネーションで、加賀屋は大きくステップアップしたのだと思います。
私も母の考え方を踏襲して、ここぞと思った時には大胆にサービスすることがあります。主人は「加賀屋に来たお客様が、『あそこは本当によかったぞ。今度は一緒に行こう』と周囲の人に声をかけてくれたら、旅館にとっては天国だ。でも『あの旅館はだめだ。二度と行きたくない』と口コミで伝わったら、地獄に落ちる」とよく言います。まったくその通りだと思います。
客室係が生命線
旅館にとって、生命線はおもてなしを担う社員であり、特にお客様の最前線に出る客室係です。その社員が、安心して働ける環境をつくることが、会社の使命であり、女将の使命でもあります。
母は客室係をはじめとする社員の面倒をよく見ていました。社員のお子さんが学校に合格したと聞けばプレゼントを買ったり、病気をした社員や、お子様の見舞いに行くことはもちろんです。時には、事情があって学校の試験を受けられなかった客室係の息子さんのために、高校の校長先生に直談判しに行ったこともありました。
母の感覚では、社員、特に客室係は、そのご両親やお子さんも含めて、「一つ屋根の下で苦労をともにしている家族」でした。家族であれば、進学の心配をしたり、病気になると体の心配をして面倒をみるのは当たり前です。
私自身も、母の気持ちに胸が熱くなったことがあります。1963年(昭和38年)、石川県では大雪が降りました。県内で「38(サンパチ)豪雪」と語り継がれる積雪で、住宅の2階の高さまで積もるようなすごい雪の量でした。
ちょうど私は、結婚して初めての里帰りをしていたときでした。東京から戻る列車も雪で大幅に遅れました。真夜中に加賀屋に着いたときに、毛布をかぶった人が外で待っているのが見えました。誰だろうかと思ってよくみると、母の姿でした。
聞くと、私が無事に到着するだろうかと、何時間も外で待っていてくれたとのこと。私のためにここまでしてくれるのか、と胸が熱くなりました。この人をお手本にして頑張らないといけないと、翌日から新たな気持ちで旅館のお仕事に打ち込みました。
1986年(昭和61年)に主人と相談して、保育園を併設した母子寮「カンガルーハウス」を加賀屋の近くに造りました。これも客室係に不安のない生活をしてもらうことが、いいサービスにつながるという母の考え方を原点にして、私たちで考えたものです。
私も3人いる自分の子供が大きくなった後でも、加賀屋の近くにある小学校の校長先生にお話しをしに行くことがありました。客室係のお子さんが登校拒否になり、彼女がどうしたらいいかと悩んでいたからです。仕事で手が離せない本人に変わって、校長先生にお会いして、相談をしました。今も、カンガルーハウスには、季節の果物などを手土産に、よく足を運んでいます。
客室係も180人に増え、一人ひとりのプライベートの事情を詳しく知って相談に乗ることは、さすがに今はできません。若女将や客室係のリーダーと手分けして、困ったときには打ち明けてくれる環境をつくっているつもりです。まぎれもなく「社員は家族」です。身内以上に、愛情を持って接するように心がけています。
「加賀屋 笑顔で気働き」(小田真弓著、日本経済新聞出版社)から抜粋・再構成
写真はすべて加賀屋提供
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