「いいえ」は言わない 加賀屋のおもてなし(上)
女将が語る「笑顔で気働き」
加賀屋は「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(旅行新聞新社)で36年間日本一の座を維持する石川県七尾市の老舗旅館だ。加賀屋に嫁いで50年以上、女将になって四半世紀の小田真弓さんは「おもてなし」の前面に立つ客室係を束ね、育ててきた。このほど「加賀屋 笑顔で気働き」(日本経済新聞出版社)を出版した小田真弓さんに「おもてなし」の神髄を語ってもらった。
36年連続日本一、先代の女将が築いた神髄
加賀屋がみなさんに知られるようになったきっかけは、旅行業界紙、旅行新聞新社が実施している「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で日本一の評価をいただいたことです。1981年(昭和56年)に初めて日本一になり、その後2016年まで、36年間連続でいただきました。
評価するのは旅行会社の添乗員さんなど、数多くのホテルや旅館をご覧になっている、まさにプロの方々です。長年にわたり高い評価をいただいていることは、この上ない光栄です。
加賀屋の評判をお聞きいただき、金融機関やメーカーなど、旅館やホテルとは違う業界の方が、「加賀屋でおもてなしの極意を学びたい」「私たちにもノウハウを教えてほしい」といって、お見えになることがあります。短い期間ですが研修生として受け入れることもあります。主人や客室係のベテランは、サービスをテーマにした講演にも、講師としてよくお招きいただきます。主人はこれまでに1000回以上の講演をさせていただきました。
加賀屋のおもてなしの基礎は、母・孝が作り上げました。母も私と同様、旅館とは縁がない環境で育ちました。母の父は、県議会議員や津幡町の町長を務めた地方政治家です。母も結婚するまでは、加賀屋の仕事を何も知らなかったはずです。
素人だった母はどんな思いでお客様に接していたのか。私は困ったことや、どうしたらいいかわからないことがあると、いつも「母だったらこんな時、どうするだろう」と考えながらお客様に接しています。
実は、母が亡くなったすぐ後に、あるお客様から「これであなたの時代になった。あなたは加賀屋をどう変えていくのですか」と尋ねられたことがあります。私は、「何も変えませんよ。母がやってきたことを、守っていきます」とお答えしました。代が替わると、周囲はどうしてもそういう見方をするのだな、と思いました。
「守っていきます」と言った意味は、なにひとつ変えないということではありません。変えるべきものは、主人をはじめとして周囲と相談しながら変えてきました。ただ、母が当時の客室係の方と打ち立てたサービスの基本的な精神は変えるつもりはないということです。
母が礎を築いた加賀屋のサービスや理念の神髄をご紹介したいと思います。
「いいえ」「できません」は言わない
加賀屋はお客様のご要望に対して、「いいえ」「できません」と言わないことを心がけています。客室係は毎日が一人一人のお客様との真剣勝負だと思い、可能な限り、要望をかなえるよう努力します。それは、母のあるエピソードが、出発点になっています。
まだ、私が嫁ぐ前の話です。あるお客様が、富山県の銘酒のひとつである「立山(たてやま)」を飲みたいとおっしゃいました。しかし、加賀屋には置いていませんでした。宴会はすでに始まっていましたが、「どうしても飲みたい」と言います。
そこで、母は社員の一人に、富山県砺波市にある醸造元まで買いに行かせました。交通手段は車しかありません。当時の道路事情であれば、和倉温泉からタクシーを飛ばしても、最低でも片道2時間はかかったでしょう。宴会には間に合わなかったのですが、夜中には届き、お渡しすることができました。タクシー代はもちろん、加賀屋持ちです。
そのお客様は「その心意気が気に入った」とおっしゃって、それからもたびたびご利用していただくようになりました。私も加賀屋に入ってから、そのお客様に直接、当時のエピソードをうかがいました。「いやぁ、あのばあさんの心意気には参ったなあ」と苦笑いをしながら、「ここまでお客に尽くしてくれる旅館は加賀屋以外にない。だから加賀屋を使う」とおっしゃっていました。
戦後から昭和30年代にかけて、加賀屋を支持していただくお客様が徐々に増えた時期には、そんな話がたくさんあったようです。母は当時、「加賀屋を三流旅館から一流旅館に変えたい」とよく言っていました。そのために、より多くのお客様に喜んでいただきたいと必死だったのでしょう。
マニュアルより「笑顔で気働き」
母が1990年(平成2年)に亡くなるまで、私は30年弱の間、毎日そばにいました。晩年は足腰を悪くして、車いすの生活になりましたので、お客様の前に出る機会は減りましたが、母とよく食事をしながら、旅館の様子を伝えていました。「きょうは忙しかったかい」「どんなお客様がいらしたの」と質問しながら、私の話をうれしそうに聞いていました。一緒にいた時間を通算すると、相当に長い時間になるはずです。
実は、その間、一度も叱られたことがないのです。
嫁いだ当初は、母の後ろについて回り、旅館の基礎を教え込まれました。玄関や部屋の掃除の仕方、靴の磨き方に始まり、電話交換の仕事もしました。畳の掃除には、軽く水で湿らせた新聞紙をしばらく置き、さっと拭けばほこりがたくさんとれるといった細かいことも習いました。
旅館で働いた経験もない未熟な私に対して、言いたいことがたくさんあったはずです。母は中途半端な仕事を許さない人でしたし、自分にも厳しい人でしたから。でも、強い口調で怒られたことは一度もないのです。
母が「こうしなさい」と教えることもありませんでした。後継者になることが半ば決まっていた私に対して、「女将とはかくあるべきだ」といった精神論を語っこともありません。
当時の社長だった父の与之正からも、強い調子で叱咤(しった)されたことはありません。
最初のころ、外出先から電話をかけてきて、「きょうの宿泊者数は何人だ」と聞かれました。私が答えられずに黙っていると、「仕事に身が入っていない証拠だ」と言われ、背筋が伸びたことを覚えています。それ以降、毎日、宿泊者の人数は必ず頭に入れるようになりました。そのときの習性で、いまだに当日の宿泊人数を頭に入れるくせがついています。
ただ、父には一度だけ怒られたことがありました。客室係のリーダーが集まる「リーダー会議」に参加したときのことです。私は素人なので、自分が知らないことは聞くべきだと思っていました。会議で手を挙げて「わからないことがあります。質問させてください」とお願いしました。
返ってきた父の答えは、「質問するのはいいが、その前に自分で手を尽くして調べたのか。まず分からないことは自分でしっかり調べなさい。それでも分からない点がある場合には、質問しなさい」というものでした。この年になってわかるのですが、父も母も、今でいう「マニュアル主義」を嫌っていたのだと思います。自分で何が最適かを考えて、目の前にいらっしゃるお客様に最も喜ばれると思うサービスをすることが、加賀屋流のおもてなしです。
サービスは自分でつくるもの
先輩の言うことやマニュアルに頼って、「どこかに答えがあるはずだ」と探すのではなく、サービスは自分で作りあげるという意識が必要だと伝えたかったのでしょう。
加賀屋にも、一応100ページ程度のマニュアルはあります。しかしその中身は、ごく簡単なもので、お客様をお迎えするときやお帰りのときのお辞儀の仕方や、廊下での館内のご案内、お部屋での立ち居振る舞いといった基本的な内容です。反対に、してはいけないこととして、政治や宗教、身体的な特徴に触れるような話題は避けるといった内容も記してあります。旅館のマニュアルとしては、ごく当たり前のことしか記してありません。
私は客室係に対して、「加賀屋ではマニュアルどおりに仕事をするだけだったら、50 点しか取れないよ」と告げています。少し前までは「60点」と言っていましたが、お客様の好みやご要望が多様化していて、マニュアルどおりでは事足りない場合がほとんどになっています。
客室係一人一人の心に刻みこまれているのが、マニュアルではなく、母が女将の時代に言い始めた「笑顔で気働き」という言葉です。「笑顔」は言うまでもなく、お客様を気持ちよくお迎えするために欠かせません。「気働き」とは、その場に応じて機転を利かせて、お客様のニーズを先読みして、行動することなのです。
「加賀屋 笑顔で気働き」(小田真弓著、日本経済新聞出版社)から抜粋・再構成
写真はすべて加賀屋提供
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