松任谷正隆さん、私を「兄貴」と呼んだ父

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は音楽プロデューサーの松任谷正隆さんだ。
――お父様の功三郎さんは旧東京銀行で横浜支店長などをされたそうですね。
「その通りですが、あまり銀行員でありたくなかったというのが本音だったと思います。自分はボーイソプラノだったとか、物書きになりたかったとか話していました。本当は趣味人だったのです」
「父で思い出すのは病気です。私が中学校の時に結核で2年入院し、高校の時には胃潰瘍で死にかけました。そのたびに飼っていたコイや亀が死んで、父が生還するという妙な出来事が起きました。子どもの時分の私はおやじっ子だったので、父が死んだらどうなるだろうと恐れ、霊きゅう車を見たら親指を隠す癖があったほどです」
――大きくなってからはどんな関係でしたか。
「父は頑固で堅物なところもあり、私に高校、大学、就職といった普通の道を期待していたようです。特殊技能だと思っていた音楽は別として、私の高校時代の成績はビリから2番目の低空飛行でしたから、日替わりで4人も家庭教師をつけられました。玄関で家庭教師の靴を見るのがいやでしたね。大学では2年生頃からキーボードプレーヤーとして収入を得るようになり、バンドの世界に入りましたが、父はずっと反対でした」
「思い出すのは大学4年の頃、夜中にささいなことから起きた父とのけんかです。私が小柄な父を突き飛ばすと、3メートルくらい吹き飛んでしまいました。父はスタンドを手に、私をなぐろうとしましたが母が割って入って思いとどまります。その瞬間私は、オヤジというものは、息子がとんでもないことをしても殺せないものだ、それが親子なのだと実感しました。父を理解した最初と思います」
「その後私が音楽で食べていけるようになって父との関係は変わります。急激に仲が良くなったと言えるくらいに。けれど父の眼鏡では、私のフィールドは理解不能のままだっただろうと思います」
――仕事を褒められたことはないのですか
「それはありません。年1度、正月くらいしか会いませんでしたし。父は2014年に89歳で亡くなったのですが、その数年前から私が編曲した由実さん(妻で歌手の松任谷由実氏)の『春よ、来い』を聞いて『あれはいい曲だ』と何度も言っていました。葬儀で父を送る時、私は『春よ、来い』を流しました」
「銀行を辞めた後の父は、1人で海外を旅したり、陶芸や書をたしなんだり、行員時代にできなかったことをワッと始めました。そうありたかったことを思い切りしたのでしょう。そして亡くなるまで、父は私を『兄貴』と呼んでいました。弟がいるので、確かに私は兄ではありますが、それ以上の意味を感じました。不思議な関係だ、と今も思います」
[日本経済新聞夕刊2016年10月25日付]
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