未知なる自分を探しに 真っ暗闇への旅
地下に向かう階段を下り、ほの暗い待合室で光を発するスマートフォンや時計をスタッフに預ける。視覚障害者用の白い杖(つえ)を受け取り、案内スタッフ(アテンド)に導かれて仲間と扉をくぐると、照明が消え、やがて完全な闇になった。体温、息遣い、汗。ひんやりとした暗闇の中でも、仲間が近くにいるのがわかる。
東京メトロ銀座線の外苑前駅から徒歩8分。神宮球場からほど近い、ビルやレストランが立ち並ぶ外苑西通り沿いに、間接照明に照らされたコンクリート打ちっ放しの建物がある。暗闇の中のエンターテインメント「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の会場だ。
都会の真ん中にある「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」会場は暗闇の中で異世界を旅することができる場所だ。参加者は確かだと思っていた自分の感覚の危うさや、よく知っていると思っていた家族や友人の意外な表情に出合うことになる。
たった一筋の光もない、純度百パーセントの暗闇
友人8人でこの会場に訪れた。私たちは貸し切りでの利用だ。視覚障害を持つアテンドの「えばやん」が私たちに「暗闇」での歩き方を教えてくれた。暗闇では視覚以外の感覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚をフル回転させなければならない。互いに声をかけあい、触れなくても気配を感じることで、相手がどこにいるかを確認する。
仲間とは互いにあだ名で呼び合うことがルールだ。暗闇のなかでは、視覚を奪われる。目から得られる情報、思い込みや先入観、肩書も意味がなくなる。あだ名で呼び合うことで、親しみが生まれる。
体験は90分間。室内では、ビールなどアルコールや軽食を楽しむ時間も用意されている。暗闇のカフェでサーブしてくれる女性に「コーヒーは私です」と声をかけると、まったくの暗闇なのに違和感なく手元においてくれる。ここでは、アテンドに完全に身を任せるしかない場面も多い。
暗闇で「美術館」を楽しむ
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」はドイツが発祥地だが、日本独自のプログラムを組んでいる。「感覚を大切にしてほしい」という思いから季節ごとに体験できるプログラムを変えている。創始者であるアンドレアス・ハイネッケ博士は、日本人の繊細な感性にあわせた演出を考える日本の理事、志村季世恵さんのプログラムに、非常に感銘を受けたという。
今年11月27日までの「秋」を意識させるシーズンは、志村真介・季世恵夫妻が「17年間ずっとやりたかった」というテーマ、「暗闇の美術館」だ。見えない世界で、どう絵を楽しむのか。
季世恵さんは、「目が見える人が美術館で同じ絵を見ても、10人いれば10人分、印象が違うでしょう。見る、ということが一体どういうことなのか、目だけで見ているわけではないことを感じてほしい」と語る。
確かに、私たちは今目の前で「見ている」ものも過去の記憶に影響されていた。部屋に入り、ゆるやかに光が消えていき、「これがたった一筋の光もない、純度百パーセントの暗闇です」といわれたときのことだ。「まだ、どこか明るいような気がする」。そう話すと、「おそらく目に残った残像だと思いますよ」というのだ。
このプログラムでは、「見る」の意味を視覚障害のあるアテンドも、ゲストも互いに考えるために様々なしかけがほどこされている。季世恵さんの言葉を借りると、「絵のなかに入っていく」イメージだ。終盤、暗闇から出て、光が戻ってくる「感想の部屋」で、アテンドを含めたメンバー全員で暗闇のなかで体験してきた絵を話し合う。人それぞれ、違った絵を「見て」きたと語り合う。
美術館の「秋」が終わると12月2日から25日はクリスマスシーズン用のプログラムになる。暗闇のなかでグリーティングカードを書く。来年1月9日からは新年を迎えた自分に向けて、「書き初め」をする。「ふだんは自分の世俗的な欲をかく人も、暗闇だとなぜか『笑』とか『和』とか、違った言葉を選ぶんですよ」(季世恵さん)。暗闇にいるからこそ表面に出てくる、知らない自分が文字となって表れた瞬間だ。
暗闇はウソがつけない場所
ダイアログ・イン・ザ・ダークの体験料は大人5000円、学生3500円、小学生2500円。平日は主に企業研修や貸し切り利用が多く、一般利用は金・土・日・祝日だ。予約で埋まっていなければ、当日の参加も可能だ。
自分がまったく知らない人との体験を希望する人には、「一期一会」という方法がある。一人で申し込み、知らない相手と組んで暗闇を体験できる。光のない暗闇のなかでは、声をかけ、相手に触れなければ前に進むこともできない。初対面の、たまたま一緒になった人たちとの会話を楽しみ、異なる価値観を共有する。まさに一人旅の魅力だ。友達同士や家族で組む体験でも、「いつもよく知る相手の知らない顔を見られる」と絆が深まるケースも多い。ダイアログ・イン・ザ・ダークでの経験を経て、結婚に至るカップルもいる。
「暗闇は、人がウソをつけなくなる場所」と季世恵さんはいう。真介さんの言葉を借りれば、「暗闇はネガティブなものをニュートラルにする装置」だ。どちらも、旅に近い性質を持っている。いつもと違う非日常の空間に置かれると、人は「本音」が出る。「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」では、目の見えないアテンドが圧倒的に強い立場になる。彼らがいなければ、私たちは前を進むこともおぼつかない。
ダボス会議でも研修に活用
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」は1988年にドイツでハイネッケ博士によって始まった。現在は日本を含む39カ国、130の地域で実施されている。世界経済フォーラム(ダボス会議)におけるリーダーシップ研修にも使われるなど、エンターテインメントの枠を超えてビジネス界の注目も集めている。たった90分間の暗闇での経験が、その後の価値観や気づきに大きな変化を与えた、と各界のリーダーは語っているという。
もともとは経営コンサルタントだった真介さんがある新聞記事で「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に出合い、セラピストとして4万人もの人々の心の声に向き合ってきた季世恵さんと組んで生まれた日本での施設。しかし、常設に至るまでの道のりも長い旅路だった。「法律の壁もあったし、周囲の理解を得ることも難しかった。それでも、ダイアログは本当の自分を見つける手助けをするセラピストとしての仕事とぴったり重なっていた」
日本では、東京での常設に加え、大阪でも常設会場「対話のある家」が始まった。今年9月には、佐賀県の小学生900人を対象にしたイベントも実施。会場で、志村夫妻が「真っ暗闇の環境は、もう一つあります。どこでしょう?」とたずねたところ、子どもたちは口をそろえて「お母さんのおなかの中」と答えたという。暗闇には、私たちが旅に求める「安らぎ」も存在しているのかもしれない。
(松本千恵)
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