「美しい戦略」とはどのようなものか
日本マイクロソフト会長 樋口泰行氏(6)
日本マイクロソフト会長 樋口泰行氏
今までの経験・認識だけでブレークは生まれない
胸がすく、スポーンとはまるというように着実に成果を生み出す戦略がある。そういう戦略を、「美しい戦略」と言うならば、そこにはどのような要素が盛り込まれているのだろうか。
例えば、米アップルの携帯音楽プレーヤー「iPod(アイポッド)」の成功は、音楽配信サービス「iTunes(アイチューンズ)」との両輪でもたらされた。音楽配信サイトと連携することでたくさんの音楽を気軽に楽しめる"生態系"を生み出した。それは本当に見事としか言いようがないほどに明確で分かりやすく、受け入れやすい美しい戦略だった。
しかしさらに美しい戦略とは、参入障壁をどれだけ創り得ているかだろう。例えば、事業展開のスピードが猛烈に早く、そのスピードに他社が追いつけないのも一つの障壁ではある。しかし、速く走ることだけが参入障壁となっている場合は、その会社なり事業は必ず息切れする。
速く走っても息切れを起こさず、疲れることもない別の参入障壁があれば、これはさらに美しい戦略だ。マイケル・ポーターの『競争戦略』風に言えば価格、差別化、集中化などが明確に認識され、明確な方針が示されている戦略は美しい。
同時にこれは、美しい戦略づくりは、自身の強さをどのように認識しているかと深く関わっていることを示している。
ただ強さの認識には注意が必要だ。念頭に置いておかなければならないのは「自分が強い専門分野とは、すなわち自分が経験してきた分野であり、その強みを生かそうとすると必ず過去に固執してしまう」という宿命のような傾向があることだ。新しい発想が求められているのに、強さに固執してしまい逆に強さを発揮できないジレンマに陥る。この流れを避けることは非常に難しい。
そこで一旦、自らの強さから離れてみる。ないしは自分とは違う強さを持っていたり、違う方法で成功したりした人から学ぶ機会をつくり、結果として自分の世界を検証したり広げたりする作業をしない限りは新しい物の見方、新しい方針などは出てこない。今まで生きてきた生態系だけの経験、認識だけでは戦略には結び付いていくためのブレークは起きえない。
マイクロソフトのオープンな互換化政策
マイクロソフトも危ない状態にあった。財務的にはぴかぴかの優良状態にあり、社内では、「やはりウィンドウズがすべてだ」「業務用ソフト『オフィス』は負けない」という感覚でいた。オフィスでは機能も十分に充実してきて、「これ以上の機能があっても使いきれない」と、まるで日本製の高性能テレビリモコンのような状態になっていた。
でも、それのどこが問題で、どのような結果をもたらすかの真剣な検証は進まなかった。なにしろパソコンへのプリインストール販売で、ある程度の売上数量は確保できていたからだ。
しかしハタと気がついたときには、スマートフォン(スマホ)や携帯端末の波に乗り遅れ、クラウドサービスでも出遅れていた。「なにかおかしいのではないか」と気がついても従前の枠で考える人たちが経営リーダーとして主導権を握っていれば、どうしても変わることはできない。
しかし幸運にもマイクロソフトは自らの強さと弱さを冷静に検証できる"自省力"のようなものがあった。本来的な強みを活用して新たな競争に持ち込める仕組みを導き出せたのだ。そのキーワードが「結びつき」だ。従来技術を別の生態系と結びつけることで、新たな技術の活用や発展を促す戦略だ。
具体的にはアップルの基本ソフト(OS)「iOS」や米グーグルの「アンドロイド」でも文書作成ソフトの「ワード」や表計算の「エクセル」などのオフィス製品が無料で使えるオープンな互換化施策や、他のIT(情報技術)と結びつくことによる新たな付加価値の創造だ。
ここ数年、特に力を入れて展開されているオープンな互換化は、「ワードやエクセルはそもそも使っており、それらのデータがiOSやアンドロイドでも使えれば、それは便利だ」という単純だが強固なユーザーの支持を得られた。
とするならば業務用ソフトとしてのオフィス製品は一層参入障壁を高くなったことになる。かつてのようにライバル製品の追い落としにしゃかりきにならず、その分のエネルギーを製品の機能向上やユーザーの声に基づいた使い勝手の向上などに注げばよい。それで製品を差別化できコスト競争力も増す。
脳波とITを結びつけたマーケティング分野での活用に象徴されるように、ITと結びつくことで劇的なイノベーションではなくても世界の景色を一変させてしまう可能性が高まっている。はやりの言葉で言えば「ディスラプティブ(破壊的な技術)」の創造だ。
「結びつき」による新たなIT技術とマイクロソフトのシームレスな融合をめざすという戦略は、例えば「人工知能(AI)とオフィス」というように成熟した商品に新たな付加価値をもたらす。
エクセルの使い方を指南したり、自動修正を施したりできる。音声合成や自動翻訳機能など、素の機能としてのAIではなくアプリケーションや、その利用データなどとAIが組み合わさることで新たな付加価値を創出できるのである。
手前味噌に聞こえるかもしれないが、マイクロソフトのオープンな互換化政策とは、かなり美しく力強く、息切れしにくい戦略だと思っている。
経営リーダーの交代が改革と戦略を推進する
実際、この戦略は着実に成果をあげ、戦略の有効性を示している。
マイクロソフトはそもそもウィンドウズモバイルやPDA(パーソナル・データ・アシスタント)などの構想をどこよりも早く打ち出し、研究も進めていたが、残念ながら製品化が下手くそで、他社に遅れ、結果的に背中を追うような事態にばかりなっていた。
しかしここ数年は、ペン入力ができるホワイトボードというべき「サーフェスハブ」、無料インターネット電話「スカイプ」を使った自動翻訳機能である「スカイプトランスレーター」、12インチタブレットの「サーフェスプロ4」、音声アシスタント機能の「コルタナ」等々。気がつくと他社よりも先に世に問うている製品ができている。製品力がグンとブラッシュアップされてきた。
クラウドサービスでは「Azure(アジュール)」がアマゾンの「アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)」を射程に捉えている。マシンラーニングなどの各種の分析エンジンがコストパフォーマンスよく利用でき、また「Azure Stack」というお客さま自身のサーバーにもAzureのパッケージを乗せられるようにもした。
しかし、そうした戦略は、やはり経営リーダーの交代なくしてはあり得なかったとも思うのである。
(2014年2月、最高経営責任者=CEO=に就任した)サティア・ナデラというインド出身で、文化の違うユーザーの存在を理解し、顧客目線も備えているマルチカルチャーの経営リーダーの登場が大きなきっかけになった。
マルチカルチャーの経営リーダーがテクノロジーを見たときに初めて、どのような最終製品に仕上げたならば滑らず(失敗せず)、きっちりと差別化できた製品を世の中に送り出せるかの戦略を生み出せたのだ。
それは「製品の監修力」と言ってもいいかもしれない。このレベルが、ナデラをはじめとする新しい経営リーダーによってグンと向上した。
先にも書いたが、人は自分の強みを生かそうとすると必ず過去に固執するものだ。強かったから成功し、成功体験であるが故に間違ってはいないと思い込む。しかし成功体験こそが新たな発想を阻害する。
このジレンマを打破するには違う考え方を持つ人物を経営リーダーに据えるしかない。前CEOのスティーブ・バルマーが社長交代からピタッと会社に出てこなくなり、口出しもしない。そういう潔さも"自省力"であり改革と戦略を推進する力になる。
自社話になったが、ここ数年のマイクロソフトの戦略と取り組みは、戦略の重要性、戦略を考える際の視点などを実際に学べるよいケースであると思う。
1980年阪大工卒、松下電器産業(現パナソニック)入社。91年米ハーバード大学経営大学院修了。2003年に日本ヒューレット・パッカード社長。ダイエー社長を経て、08年日本マイクロソフト社長に。15年より現職。
(撮影:有光浩治)
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