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歴代首相も通う高級紳士服店、銀座テーラーグループ(東京・中央)の3代目社長に就任した鰐渕美恵子さんは、夫の死を嘆き悲しむ暇もなく、巨額の負債を抱えた会社の再建に取り組んだ。ホームページや小冊子での情報発信にも努め、従来品よりも価格を抑えた新ブランド「SAMURAI」を立ち上げるなどして、新規顧客を開拓していった。だが、その後も山はいくつもあった。

◇   ◇   ◇

会社というのは生身の人間と同じで、風邪をひいたり、病気にかかったり、死に至ることもあります。バブル経済の崩壊後、銀座テーラーはなんとかその危機を乗り越えてきましたけれども、山は1つではありませんでした。

リーマン・ショックの直前、銀座は本当にミニバブルかと思うくらい、にぎわっていたんです。それが、一夜にして人がいなくなりました。デパートに行きましても、お客さんよりも店員の方が多い。同じようなことは、東日本大震災の後にも起こりました。

落ち込んだ銀座の街を盛り上げようとパーティーを開催

銀座テーラーグループ社長 鰐渕美恵子氏

銀座テーラーグループ社長 鰐渕美恵子氏

東日本大震災があった2011年3月11日を境に、銀座の街はすっかり閑散としてしまいました。周りのレストランは昼も夜もキャンセルだらけ。飲食店にとりまして、3月、4月は書き入れ時であり、本来ならば非常ににぎわうはずの時期です。それが、まったくお客さんが来ないとなり、街全体がもう、どうしようもないほど落ち込みました。

その時に考えましたのは、お客様を幸せにするのは洋服だけではないだろうということです。思い出したのは、私が社長に就任した際、真っ先につくった企業理念です。そこには「銀座テーラーはお客様の幸せづくりを第一と考える」とありました。

ならば今、どうすればお客様を幸せにして差し上げることができるのか。考えた末、私どもが主体になりお客様同士のネットワーク作りをやっていこう、と決心しました。

打ちひしがれたムードを刷新するため、お客様をご招待してアメリカンクラブでパーティーを開きました。150人くらいはお見えになったと思います。心の中ではみなさん、「そんな気分じゃないんだよね」というお気持ちが残っていたことでしょう。しかし、そこをあえて明るく乗り切ろうと思いました。

銀座に活気が戻らなければ、日本経済全体が沈んでしまいます。みなさまに楽しくお買い物をしていただくため、「絆」という名の生地を織りました。これを英国のドーメル社とのダブルネームブランドにしまして、真ん中に漢字で「絆」と刺繍(ししゅう)を入れた。それを皆さまに買っていただき、売り上げの一部を、東日本大震災で両親や兄弟を亡くした子供たちに寄付することにしました。

店のお客様同士が交流する機会は、それまでまったくありませんでした。会場に集まったみなさんの中に気の合いそうな方たちがいたら、ご紹介してつなぐこともしました。ちょうどこのころからですね、銀座テーラーとしてマッチングビジネスにも乗り出すようになったのは。

銀座テーラーグループは経済同友会、商工会議所、経団連の三団体に入っております。最初に入会しましたのは経済同友会で、これはもう10年以上前のことになります。

最初のころはみなさん、口には出されないまでも「どうして洋服屋がこんなところに入っているの?」と思っておられたと思います。今ではすっかりおなじみで、会うと「やあ、鰐渕さん」と声をかけていただけるようになりました。これも、長年積み重ねてきた信用のおかげだと思っています。

「鰐渕さんの言うことならば、ちょっと聞いてみようか」と耳を傾けてくださる方も増えました。

テーラー事業が衰退しても洋服がなくなるわけではない

20歳代で起業した方に比べれば、私の社長経験は短いです。しかし、その分、とても濃密でした。

会社に入ったばかりのころは、1日のうちに何度、決断を強いられたかわかりません。現在のオフィスに落ち着くまで何度も引っ越しをしていますが、そのたびに「この机、残しますか?」「捨てますか?」と聞かれるわけです。経営者というのは、そういう決断を積み重ねながら成長していくものだと思います。

決断もやはり訓練ですね。それが十中八九当たる方は、成功しています。

手縫いを中心としたテーラー事業は、今後も衰退していくだろうと思っています。一番の理由は洋服をつくる職人さんがすでに高齢化してしまっていること。それに伴い、技術の伝承や後継者の育成が大変困難になっていることです。

私はそうなることを予想して10年前、「日本テーラー技術学院」をつくりました。銀座テーラーの技術を残すには、自分たちでそれを継承していかなくてはならない。そのためには学校をつくり、マンツーマンで教えることが必要だ、と判断しました。

先ほどテーラー事業は衰退すると言いましたが、洋服の需要がなくなるわけではありません。その昔、テーラーがなぜ栄えていたかと言えば、既製服がなかったからです。洋服を買えなかったから、つくるしかなかった。

今はどうでしょう? どこでも、すぐに手ごろな値段で洋服が買えます。トレンドも、毎年、変わっていきます。

どんなに素晴らしい技術を持っていても、そのトレンドに追いついていく努力をしなければ、お客様にそっぽを向かれるのは当たり前です。手ごろな価格で既製服が手に入る時代に銀座テーラーのような業態が生き残っていくためには、どうしてもオンリーワンになる必要がある。そのために、早期から技術者の育成にも取り組んできました。

バトンタッチのタイミングは40代が肝

自分自身の経験を振り返っても、社長になるなら、やはり40歳代である程度の決断を踏まなくてはならない。ですから、専務である娘の祥子は今年38歳ですが、40歳代で社長に昇格させるつもりでいます。

数年前から、その準備も始めました。

娘はもともと販売員として入社しましたが、私から「継いでほしい」と言ったことはありません。マーケティングを勉強しにいったん米国へ行って戻ってきた後、インターネット関連の企業に勤務するなどしていましたが、08年に再入社する際、どうしたいかを確認しました。答え次第では、就けるポジションを変えなくてはなりませんから。

「継ぎますか?」と疑問形でたずねると、彼女が「やります」と答えてくれました。

この9月7日には、東京・数寄屋橋のファッションビル「銀座ファイブ」の中に「CLOTHO(クロト)」という名で新業態の店舗を本格出店しました。クロトという名前は、人間の運命の糸をつむぐギリシャ神話の女神から引用しました。7万円から13万円というリーズナブルな価格でオーダースーツを提供し、古いスーツをよみがえらせるお直しなども手がけます。

専務にはまず、このお店の経営を任せるつもりです。

実を言いますと、彼女が昨年4月に出産をしまして、事業承継の計画は少し先送りになっています。家族の支えがあっての事業ですし、子育ても大事ですから、これもうれしい誤算として受け止めています。

鰐渕美恵子(わにぶち・みえこ)
1948年大阪府生まれ。70年甲南大学文学部英文科卒業。同年、大阪万国博覧会国連館VIPコンパニオンとなる。73年銀座テーラーグループの後継者、鰐渕正夫氏と結婚。92年銀座テーラーグループに入社。95年総支配人、2000年、3代目社長に就任。06年職人を育成する日本テーラー技術学院を開校。

(ライター 曲沼美恵)

前回掲載「銀座の高級紳士服 元主婦、夫の借金100億に悪戦苦闘」では、専業主婦が40歳代で初めてビジネスの世界に飛び込んだいきさつを語ってもらいました。

「キャリアの原点」は原則木曜日掲載です。

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