兄弟子の思いやりにはウラが…
立川笑二
師匠と兄弟子の吉笑とともに毎週更新しているまくら投げ企画。
今回の師匠からのお題は「忘れられない味」。
今から2年ほど前、吉笑兄さんと私がルームシェアをしていたころのできごと。9投目! えいっ!
2014年の夏場から秋ごろにかけて、私は、いろんな嫌なできごとが重なってしまい、落ち込んでいる時期だった。
仕事以外で外に出ることはなく、部屋の中で1日中ゴロゴロと転がって過ごしていた。
当時、ルームシェアをしていた吉笑兄さんには事情を全てしゃべっていたのだが、同居人の私が毎日そんな生活をしているのを見て思うところがあったのだろう。
ある夜、兄さんが私の部屋のふすまを開けて「飲みにいこう」と声を掛けてくださった。
場所は阿佐谷の居酒屋だった。
何をしゃべるでもなく、だらだらとお酒を飲んでいると急に兄さんが「気分転換に旅行にでも行って来いよ」と提案してきた。
私は「いや、そんな気分じゃないんで」
とかわしたが
「お前、そんな状態をいつまでも続けてちゃしょうがないだろう」と兄さん。
まだ大して飲んでもいないはずなのに、
「そんな状態の奴の落語なんて面白くない」
「お前が家にいるだけで気が重くなる」
「立ち直るきっかけは自分でつくれよ」
と止まらない。
それでも私が
「目的がないのに出掛けるのって嫌いなんすよ」
と断ると、兄さんが
「じゃあ、お前の旅の目的をつくってやるよ」
と言い、その場でどこかに電話をかけ始めた。
「もしもし、あすの昼ごろに弟弟子の笑二がそっちに行くから。よろしく。じゃあ」
電話を切った兄さんが笑いながら
「これで目的ができたから。お前、あす、京都の俺の実家に行ってこい。お母さんには伝えたから。これで行かないとかはなしだからな」と。
その後、京都のお薦めのスポットや宿泊先を教えられ、飲み会はお開きとなった。
翌日、始発の新幹線で私は京都へ向かった。
なぜ始発なのかというと、兄さんが実家の詳しい住所までは教えてくれなかったからだ。
京都の○○駅の周辺で一番ボロい家が俺の実家だから、後は自分で探せ。
という情報しか与えられていなかったのだ。
そんな情報だけで、お昼までにたどり着かないといけないということになると始発で行かなければならなかった。
そんなこんなで、兄さんの実家の最寄り駅についたのが9時ごろ。
「ボロい家」の情報だけを頼りに本当に見つけられるのかよ。と思いながら探し始め、兄さんの実家を見つけたのが9時20分。
ものすごく早く見つけてしまった。
家がボロかったというより、兄さんの独特すぎる苗字「人羅(ひとら)」の表札が出ていたのですぐに見つけてしまった。わずか20分で旅の目的を早くも達成してしまったのだ。
こうなったら目的を変更するしかない。
旅の目的を"兄さんの実家に行く"から、"兄さんの実家で京都名物「ぶぶ漬け」が出るまで居座る"に変更し、チャイムを鳴らすとお母様が出てきてくださった。
「あっ、おはようございます。立川笑二です」
「どうも、真樹(兄さんの本名)がいつもお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそいつも兄さんにはお世話になっております」
「そうですか」
「はい」
「……」
「……お邪魔しました」
1分も持たなかった。
ぶぶ漬けを食べるには強靭(きょうじん)な精神力が必要だということを学んだのと同時に、私は旅の目的を失ってしまった。
さて、これからどうしようかと考えていると兄さんからのメールが届いた
「思ったより早く着いたみたいだな」と。
「はい、これから東京に帰ります」と送ると
「いや、せっかく京都にいるんだし、次は二条城に行ってみなよ」と返ってきた。
言われた通りお城へ行き一通り見終わった後で、また兄さんからのメール
「そろそろ見終わった? じゃあ次はここに行ってみて」
そんな具合で、兄さんのメールに従ってその日は京都を観光し、兄さんお薦めのホテルに泊まった。
翌朝、目が覚めるとまた兄さんからのメールが届いていた。
「おはよう。何時ごろに帰ってくるの?」
「15時ごろです」
「了解。気分転換になった?」
「なりました! ありがとうございます!」
正直、まだまだ落ち込んでいた。
でも、兄さんにこれ以上気を使わせるのはだめだと思った。
明るく振る舞っているうちに、以前の状態に戻れるだろうし、兄さんもそうなってほしいと思っているということが伝わってきて、少しだけ前向きになれた気がした。
予定通り15時ごろに帰ってきた。兄さんは留守にしていたのだが、玄関を開けて驚いた。
いつもお互いの靴が散乱し、ぐちゃぐちゃの状態だった玄関が、きれいに整とんされているのだ。
さらに、きれいにされていたのは玄関だけでなかった。居間、お風呂場、トイレに至るまで徹底的に掃除されているではないか。
なぜ兄さんがそこまでしてくれるのか、私には理解できなかった。なんだか少し気味が悪かった。
私は今晩、彼に抱かれてしまうのだろうか……と震えながら、今回の出来事を思い返してみた。
急に「あすから旅に出ろ」と言われたこと。
帰りたがる私への観光指示。
朝のおはようメール。
異常にきれいな部屋……
ここで、私は大変なことに気が付いてしまった。
あの野郎! 俺がいない間に女性を連れ込みやがった!!!
きれいに掃除された居間で、兄さんのために京都駅で買った「八つ橋」を一人で全部食べ、一切掃除されていない汚ない自分の部屋でふて寝した。
あの「八つ橋」の味を忘れることはないだろう。
それから2カ月ほど、私は以前にも増して落ち込み続けた。
(次回8月10日は立川吉笑さんの予定です)
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。