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19世紀ピアノで弾くシューマン 小倉貴久子さん(前編)ロマン派の音色

2016/7/30

 ピアニストの小倉貴久子さんが1845年製フォルテピアノでシューマンの曲をCD録音した。作曲当時の「古楽器」による演奏を従来のバロック・古典派時代から19世紀以降のロマン派作品にまで広げる動きだ。小倉さんが演奏を交えロマンチストの音の本質を語る。

 何本もの張り詰めた弦。ハンマーが跳ね上がっては打弦する。小倉さんの自宅にある「ヨハン・バプティスト・シュトライヒャー」という1845年製作のフォルテピアノだ。かつてフォルテピアノと呼ばれたピアノという楽器。その内部構造はピアノが機械式の打楽器であることを思い起こさせる。

 「機織り機みたいですね」と思わず口にしてしまった。「はたおり、ですか」と小倉さんはけげんそうな表情をみせる。「産業革命の時代を想像したら連想が働いてしまって」とすぐに弁解した。確かにピアノと機織り機では劇場と工場ほどに機能も効用も異なる。それにしても見るからに精巧なメカニズム。かつてヨーロッパの音楽の中心は声楽曲だった。ピアノの普及に伴う器楽曲の隆盛は、やはり18世紀半ばから19世紀にかけての産業革命のたまものといえる。

 小倉さんの自宅にはそんな産業革命期の古い鍵盤楽器が所狭しと並ぶ。シュトライヒャーのほかにイギリス式のアクション(打弦の仕組み)を採用したプレイエルのフォルテピアノ、ハープシコードもある。「楽器博物館みたいでしょう」と小倉さん。これらの古楽器を作曲家の生きた時代や作曲年代ごとに弾き分けるのだ。

シューマンが生きた時代の1845年に製作されたフォルテピアノ「J.B.シュトライヒャー」(ピアニストの小倉貴久子さん所有)=撮影 片山和雄

 今年リリースしたCD「星の冠~ロベルト&クララ・シューマン」では1845年製シュトライヒャーを使った。ドイツロマン派の作曲家ロベルト・シューマン(1810~56年)とその妻でピアニスト、作曲もしたクララ(1819~96年)の作品を集めたCDだ。「シューマンが当時弾いたかもしれない楽器で演奏したいと思った」と話す。シューマン夫妻がこだわったのがまさにシュトライヒャーのタイプのピアノだ。

 小倉さんは東京芸術大学大学院ピアノ科を修了後、オランダのアムステルダム音楽院に留学し、特別栄誉賞を得て首席で卒業した。1995年にベルギーのブルージュ国際古楽コンクールのフォルテピアノ部門で9年ぶり史上3人目の第1位と聴衆賞を得て優勝し、話題を呼んだ。これまで出したCDは40枚以上。1802年製のイギリス式フォルテピアノでハイドンやベートーベンの作品を弾いたCD「イギリス・ソナタ」は、「平成24年度文化庁芸術祭レコード部門大賞」を受賞した。古い時代の鍵盤楽器演奏の第一人者である。

インタビューにこたえるピアニストの小倉貴久子さん=撮影 片山和雄

 「最初に出合ったのは18世紀末に製作された古典派の時代のフォルテピアノ。モーツァルトやベートーベンの初期のピアノ曲を弾くのに適していた」と話す。「ハイドンやモーツァルトといった古典派の曲を弾くのは大好きでライフワークなんですが、その後のロマン派の時代の作品も弾きたくなった」とシューマン夫妻の作品をCD録音した理由を話す。「シューマンのような19世紀半ばの作品にまで時代が下ってくると、現代ピアノで弾いてもいいんじゃないかと思った時期もあった」と言う。しかし「大学では主にシューマンを研究していたことから、どうしてもシューマンの時代の19世紀のフォルテピアノで弾きたくなり、フランスにあったこのシュトライヒャーを購入した」と経緯を話す。

 作曲当時の仕様の楽器(古楽器、ピリオド楽器)によって作品の本質を忠実に再現しようという動きは1960~70年代に台頭した。古楽器といっても、当時製作された楽器をそのまま使うだけではない。作曲家が生きた時代の仕様の復元楽器も使われる。ニコラウス・アーノンクール指揮のウィーン・コンツェントゥス・ムジクス、フランス・ブリュッヘン指揮の18世紀オーケストラ、シギスヴァルト・クイケン率いるラ・プティット・バンドなど、古楽器による演奏集団が世界を席巻した。日本では鈴木雅明氏が創設したバッハ・コレギウム・ジャパン、延原武春氏が立ち上げた日本テレマン協会などがある。その中心演目は17~18世紀の音楽。バッハからベートーベンの初期までのバロック・古典派の作品だった。

 だが最近は古楽器演奏が急速に時代を下っている。フランスのフランソワ=グザヴィエ・ロト指揮レ・シエクルは、ストラヴィンスキーの20世紀初めの作品「春の祭典」「ペトルーシュカ」までも時代考証に基づき、1900年前後の「古楽器」と当時の奏法で演奏・録音している。

1845年製のフォルテピアノの機械構造について説明するピアニストの小倉貴久子さん=撮影 金谷亮介

 ピアノ演奏にも同じ動きがある。「現代ピアノが合うのは、今生きている作曲家の作品だけだと思っている」と小倉さんは話す。シューマンの演奏で使うシュトライヒャーについては「明瞭な音ながら柔らかく、ふくよかな響きがある。それが何ともいえないニュアンスを引き起こす。ちょっと幻想的な、ロマンチックな雰囲気が感じられる」と指摘し、「ドイツロマン派の響きという意味で、現代ピアノにはない魅力がある」と語る。

 CDはシューマンのロマンチックな香りに満ちた傑作「クライスレリアーナ」(作品16)と「幻想曲」(作品17)を収録している。この2曲について小倉さんは「当時の19世紀のフォルテピアノによる録音としては世界的にも先駆けの事例と自負している」と語る。映像では彼女が「クライスレリアーナ」の第1曲を演奏している。ドイツロマン主義の幻想文学の作家ホフマンの小説「牡猫ムルの人生観」に登場する架空の音楽家クライスラー。その名に由来する「クライスレリアーナ」は、のちに妻となるピアニスト、クララにささげられた。これがロマンチストの音色だ。

(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)

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