今だからはまる、大人のピアノ(第1回)
幼少の記憶と未来の夢
「小さいころに、ピアノを習っていたんです」という話をよく聞きます。私たちの子どもの頃の習い事の定番はピアノ。でも、プロの音楽家にならない限り、途中でやめてしまっている人がほとんどです。
私自身もその一人でしたが、5年前にあることがきっかけでピアノを再開しました。それが現在のライフワークにとって、とても大切な存在となっています。
友人や知人に紹介してもらい、同じくピアノを再開された30代の男性お二人にもインタビューしました。ボディービルの80kg級日本チャンピオンで、パーソナルトレーナーの須山翔太郎さん、そして小児科医院と保育園の一体運営に取り組まれている医師の高畠琢磨さんです。
ピアノとは直接関係しない専門領域のお二人ですが、お話を聞くと共通点が多く、また、小さいころのピアノ経験が、今は将来の夢にも大きくかかわっていました。ピアノを通して語られる生き方や考え方もすてきでした。須山さん、高畠さん、そして私自身の体験談を交えて「大人のピアノの魅力」を3回の連載でお伝えします。
第1回の本記事でご紹介するのは須山翔太郎さん(34歳)です。
ピアノを追求していくスタイルは、競技と同じ
―― よろしくお願いいたします。まず、今までのピアノのご経歴を教えてください。
経歴といってもほとんどないです。最初は小学校4年生のときに約1年間。次が20~21歳のときに1年間。3回目が今回で、3カ月前にスタートしたばかりです。
―― 最初に始めたのはどのような理由だったか、覚えていますか?
確か、自分からやりたいと言って始めました。当時たくさんやっていた習い事の1つでした。母も5歳からピアノをやっていて、家にグランドピアノがあり、その下を僕は遊び場にしていました。
僕の両親はクリスチャンで、自宅が教会だったんです。父が牧師で、1階の礼拝堂からは賛美歌と、母が伴奏するピアノの音がいつも聞こえてくるような環境でした。そのせいか、街の中でもどこでもピアノの音が聞こえると、はっとしてしまうんです。心のどこかでずっと「ピアノをやらなくては」という思いはあったんでしょうね。
―― 今回、久しぶりに始めようと思われたきっかけは何だったのでしょうか。
実は、ピアノを近々始めようと思っていたわけではなかったんです。パーソナルトレーニングのクライアントさんのホームパーティーで紹介されたのが現在の先生で、ピアニストの荒井美沙樹さんです。国際コンクールに出場されているような方なので「生徒なんかとってないですよね」と聞いたら、「生徒さんは増やしたいです」と言われたので、勢いでレッスンを受けることにしました。
―― 始めてみて、いかがでしたか。
13年ぶりぐらいに始めたんですが、こんなにすばらしい世界を放っておいたなんて、もうどういうことだろうと思うほど熱中しています。スケジュールのどこかにピアノの予定を入れるには生活のスタイルを変えなくてはならず、最初はちょっと大変でしたが、夢中になりました。仕事から帰ってきて夜中の3時ぐらいまで遮音装置をつけて弾いたり、朝起きたら顔洗ってうがいするよりも先にまずピアノにさわりたい、という感じです。
―― すごいですね。須山さんはボディービルの競技という世界に長く身を置いてこられたわけですが、ピアノを弾く上で何か共通する感覚のようなものがあるのでしょうか。
接するスタイルが、競技とは似てますね。僕は自分を追い込みたいタイプなので、やるならとことん、ということですね。ピアノも、この曲弾けたらいいなではなくて、弾くならとことんうまくなりたいですね。いずれはコンクールにも出たいなあと思っています。
―― 私もピアノを小学校1年から高校3年まで、毎日最低1時間、ときには2時間、相当真剣に練習していたんですが、大学で東京に来たためにやめてしまいました。ずっと弾いていなかったのですが、再開してからちょうど5年になります。でも、コンクールに出たいとまで思ったことはないですね。
競技の世界では、誰かと競うことで自分のレベルがより引き上げられるんです。日本のトップのレベルまで行くと、その領域に来た人たちにしか感じられないもの、そこまで行った人にしか共有できない世界観みたいなものがあります。お互い切磋琢磨して順位を競いあわないと、なかなかそこまでにはなれません。ピアノも同じで、コンクールでは優劣がつきますから、レベルを上げるための一つの手段かなと思います。何か目標があってそこに向かっていったほうがやりやすいですね。
ただ、目標は人それぞれでいいと思います。僕はちょっと極端な性格なので。
―― 大人になって再び始めようとする方は、音譜が読めるかなとか指が動くかなとか、いろいろな不安があるかと思いますが、そういう方々へのメッセージはありますか?
ピアノに限りませんが、毎日の積み重ねほど怖いものはないなと思います。僕は競技では毎日の積み重ねで体をつくってきたので、毎日の繰り返しがすごい結果につながるということは身にしみています。ピアノも同じだと思います。
―― 今までのお仕事や競技での経験が、ピアノととても結びついているんですね。
何の世界でも一緒なんでしょうね。僕は15歳の時にボディービルと出合って、10年分の目標をすべて立てて、全部クリアしてきました。オリンピックに出たかったのですがなかなかオリンピックの競技種目になりませんでした。もともとマッチョな体に憧れるというより、立派なアスリートになりたいという気持ちが強かったですね。競技をやってきてこういう体になっていますが、自分の内面性とはかなりギャップがあると感じています。
―― お話を伺いながら、実はすごく繊細な感性を持っておられる方かなと思いました。
内面とやっていること、体は全然違いますね。
家の中には常にピアノの音が流れている
―― 須山さんがピアノを始められて、周囲ではどんな反応がありましたか?
そうですね、職場での反応はすべて、"ギャップにびっくり"ということでしょうね。「ええっ?」って。
―― ご家族の反応はいかがですか? お母様は、ピアノの音をとても楽しんで聞いていらっしゃるのではと思いますが。
そんな感じはたぶんありますね。母は教育熱心なタイプではなかったのですが、母の影響は相当強いと思います。家庭にはピアノの音が流れているものだという思いがあるので、結婚するならピアノの弾ける人がいいですね。将来建てたい家をいろいろ想像するのが好きなのですが、頭の中の未来の家には必ず、中心となる場所にピアノがありますね。
―― 小さいころを振り返って、あのときピアノをやっていてよかったと思う瞬間はありますか。
たった1年でも、やっていてよかったと思います。逆にいうと、昔、1年でもピアノをやっていた人はまたできるんじゃないかと思います。普通、やっていたという人はもう少し長くやっていますよね。そういう人が始めるなら、僕から見ればもう十分できると思いますね。
―― 私がピアノを再開して感動したのは、小さいころに頑張って練習していたときの音とか風景、感情などをすごく思い出すんですね。当時住んでいた家でピアノに向かっている自分、学校から帰ってきてまずピアノを弾いてから遊びに行ったこと、練習中に母が「ご飯よ!」と呼んでくれたときの状況などを、音と一緒にビジュアルで思い出します。
昔の情景は思い浮かびますね。僕は本当に初心者なので基礎からやっていますが、例えばツェルニー30番はみんなが通るところですよね。世界中の偉大なピアニストも、小さいころにお母さんや先生について、これを頑張って練習していたんだなと思うと、自分もその世界を共有できるようで感動しますね。
―― ツェルニーって、昔はあまり楽しいという感覚はなかったのですが、それも楽しいのが大人のピアノかもしれませんね。ピアノがお仕事の面にもいい影響をもたらしていることはありますか。
パーソナルトレーナーという仕事は、トレーニングをただ黙々とやるだけではなく、クライアントさんとのコミュニケーションがものすごく重要なんです。僕はクライアントさんと何でも話します。お金の話や恋愛の話、家庭の話もしますし、お客さんのグチも聞きますしグチも聞いてもらいます。
ピアノの話も毎週毎週していると、だんだん興味をもって聞いてくれるようになります。ただきついトレーニングだけじゃなくて、楽しい場になりますね。
―― これから始めてみたいと思っている方に何かひとことを。
きっかけって大事ですよね。始めたいと思っていてもきっかけがないかもしれませんが、一歩踏み出すことしかないですね。
僕がピアノを始めたもう一つの動機は、自分の子どもに聞かせたいということです。母からピアノを通して感性を育ててもらって、こんなすてきな世界を自分の子どもたちにも教えたいという気持ちがあるので。もし奥さんになる人がピアノを弾けなかったら、自分が弾いて子どもたちに聞かせたいです。
―― 誰かに聞かせたいという気持ちも、もしかしたらきっかけになるかもしれませんね。自分のピアノを聞いて、誰かが幸せになれるとしたら、うれしいですね。
誰かに聞いてほしいという気持ちはありますよね。人間って、アウトプットしたいという自然な欲求があるものだと思います。
* * *
インタビューは、須山さんのピアノ再開のきっかけとなった方が勤務されている日仏文化協会汐留ホールで行いました。お話の後で、須山さんに練習中の曲を弾いていただきました。丁寧で優しいタッチの、まっすぐな気持ちの伝わるピアノに感動しました。
(第2回に続きます)
大手外資系通信社でセールスマネジャーを務める。シンガポールで8年間の勤務経験がある。旅や観光、地域振興に詳しく、インバウンド向けの地方観光の広報コンサルタントも現職で行っている。小型船舶免許も保有し、瀬戸内海を自由にクルーズするのが当面の夢。香川県出身。
[取材協力:日仏文化協会汐留ホール]
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