破門宣告も覚悟… 修業時代、山手線で大失態
立川吉笑
談笑一門でのまくら投げ企画。師匠からいただいた今回のお題は「乗り物」ということで、早速今回も笑二から投げられたまくらを受け取って、次の師匠につなげたいと思う。
ちなみに前回書いた「寝ないカレー」のまくらは、自分としてはとてもよく書けたと思っていて、読者の方からの反響もこれまでで一番多かったけど、唯一実家の母ちゃんから「あんた、あたま大丈夫なんか?」と本気で心配されてしまったから、今回は母ちゃんも安心してくれるようなまくらを投げるよう心がけたい。
「僕は『立川吉笑』という乗り物に乗って、常にここではないどこかへ向かっている」みたいなことを書けば母ちゃんが喜び、母ちゃんが喜ぶと実家から定期的に送られてくるお米の量が増えて、ひいては僕の胃袋も喜ぶことになるのは目に見えているけど、さすがにそんなシャレた文章を書く勇気は持ち合わせていない。ということで、いつも通りの温度で書いてみよう。
そもそも毎日現場が違う落語家は移動が多い職業だといえる。新幹線に乗ったり、夜行バスに乗ったり、船に乗ったり……。落語家になってからいろいろな乗り物に乗ってきたけど、乗り物で何か思い出があったかなぁ?と振り返ると、浮かんでくるのは師匠との思い出ばかりだ。
まずはタクシー。
2010年11月6日に入門した僕は師匠・談笑の一番弟子として右も左も分からないままとにかく師匠の会について回るようになっていた。入門して2週間後くらいだったか、師匠から初めて落語の稽古をつけていただいたときは本当にうれしかった。差し向かいで師匠が『道灌(どうかん)』というネタを一席やってくださる。自分が衝撃を受けてほれ込んだすごい落語家(=師匠)が、自分の目の前で、自分だけのために一席やってくださっている状況に感動しながら、歯を食いしばって笑いをこらえた。
「とにかく早く、たくさんのネタを覚えちゃいなよ」
初めての稽古の終わりに師匠からそう言われた。家に帰ってノートに台本を書き起こし、そこからネタを覚える期間に入った。
それから1週間くらいたったある日。落語会の帰り道、師匠と一緒にタクシーに乗った。師匠は後部座席で、僕は助手席。運転手さんに行き先を告げた師匠が、間髪入れずに
「もう道灌は覚えた?」
と聞いてこられた。その瞬間、焦った。
1週間、精いっぱいやったけど正直なところ、まだ半分くらいまでしかきっちり覚えられていなくて、後半は完全にうろ覚えの状態だった。一番弟子だから比較すべき指標がなかった僕は「そんな速いペースで覚えていくものなのか!?」と驚きながら、でもここで「まだ覚えていません」とか言ったら、やる気がないと思われて破門されるに違いないから間髪入れず、
「はい、ほぼ覚えました!」
と微妙に濁しつつ、宣言してみた。「ほぼ」とか言いながら本当は半分くらいしか覚えていなかったけど。
そうしたら師匠が、
「いいよ、いいよ! かなり速いペースだ!」
と興奮されたから、「しまった、わなにかかった!」と思った。やっぱり最初の一席を1週間で覚えるのは速いペースだったんだ! しかも続けて、
「じゃあ、聞いてあげるから今ここでやりなよ!」
と。耳を疑った。だってここはタクシーの中だ。
それこそ談志師匠はそういう稽古の付け方をされることがあるとは本で読んだりして知っていたけど、それは談志師匠だからこそのエピソードであって、まさか師匠がそんなことをおっしゃると思っていなかったから、「そうかこれは師匠のボケだ」と判断して、若手芸人さんのように「いやいや、ちょっと待ってくださいよ~」的なリアクションをとろうとした矢先に
「できるだけ大きな声でしゃべりなね」
と言われて「これはマジなやつだ」と悟った。
「落語の方に出て参ります人物はと言うと……」
オドオドしながら道灌を話し始めた。
「声、ちっちゃい! もっと大きく!」
「落語の方に出て参ります……」
「もっと! おなかから声出して」
「落語の方に出て参ります……」
こんなに大きな声でやるものなんだと驚きながら道灌をしゃべった。冒頭部分はきっちり覚えているからスラスラ言葉が出てくるものの、あと7分もしたらうろ覚えゾーンに入ってしまう。この先には地獄しかないとわかっているのに、ひたすら道を進んで行く怖さったらなかった。さぁいよいようろ覚えゾーンに入るぞ、神様!奇跡的に全部覚えていたというラッキーパンチをお願いします!!と祈りながらしゃべり続けている途中で、
「うん、それくらい覚えていたらいいんじゃない? あとはもっとゆっくり、そして大きな声を意識して」
と、師匠が制止してくださった。「た、助かった!!」
ギリギリのところで命拾いをした僕はもうこんな思いはしたくないと、家に帰ってからの数時間で残り半分をすぐに覚えてしまった。そして数日後、初高座に上がらせていただいた。
後になって「あの時は悪かったな。師匠にやられたみたいに、1回車の中で稽古つけてみたかったんだ」と言われた。確かにあれ以降、僕も弟弟子もタクシーの中で急に稽古をつけていただくことはなかった。
タクシーでの一件から数カ月後。結果的には僕が前座時代にやらかしてしまった最もヒドいしくじりとなった事件がおきた。場所は山手線。
入門してから4カ月がたち、すっかり前座スキルを身につけた僕は、その日、前座業務に従事するため日暮里へ向かっていた。基本的に前座は荷物が多いのだけど、その日は自分の着物が入ったカバンと、師匠の着物が入ったカバンに加えて、締め太鼓が入ったカバンと、チラシが入った紙袋を持っていたためいつも以上に大荷物だった。
新宿駅から山手線に乗ろうにも帰宅ラッシュの時間帯に重なってしまい、大荷物の僕は2本見送ってようやく乗り込むことができるくらいだった。ドア横の定位置に陣取り、できるだけ邪魔にならないように工夫はしたけど、池袋駅で乗客が一気に増えた際に荷物の一つを網棚に載せることにした。今思えば、自分の着物が入ったカバンを載せるべきだったけど、その時は気が緩んでいたからか、肩にかけていた師匠の着物が入ったカバンを網棚に載せてしまった。
ここまで書いたら結果は目に見えている。日暮里駅で降りて、改札を出たあたりで妙に体が軽いなぁと思った瞬間、血の気が引いた。師匠のカバンを網棚に載せたまま降りてしまった。
ダッシュで改札に向かって係の方に事情を話したら、電車はもう発車しているから数駅先の新橋駅で確認することになると言われた。続けて「何両目に乗っていましたか?」と聞かれた。そんなの覚えているはずがない。テンパっている僕は半ば逆切れ気味に、まずは新橋駅で確認してもらうお願いをしてカバンの特徴を伝えて、ダッシュでホームに向かいどのあたりで降りたか必死で思い出して「大体このあたりです」という見当を付けて駅員さんに伝えた。
10分後くらいに新橋駅の係の方からカバンがあったかどうか連絡がくることになっていたけど、待っている時間がもったいなかったから、僕もすぐに新橋駅へ向かった。
新橋駅でカバンが見つかる→その数分後に自分が取りに行く→そのまま日暮里に引き返す。この流れで行けば入り時間にも間に合うから全てが丸く収まる。またしても山手線に乗って新橋へ向かった。
その途中、御徒町駅に停車している段階で係の方から電話がかかってきた。
「確認しましたが、該当するカバンは見つかりませんでした」
目の前がグラグラした。確かに着物は高価なものだけど、入っているのはNIKEのスポーツバッグだ。それがこの数駅の間に取られてしまうなんて。東京の世知辛さたるや!
ぼう然としたまま、御徒町で降車してちょっと泣いた。そこまで追いつめられても何とか水に流す方法はないか考えるようなズルい自分だけど、しばらく考えてこれは明らかに詰んでると思ったから、正直に師匠に報告することにした。終わったと思った。
マーフィーの法則なのか何なのか知らないけど、そういう日に限って普通の落語会じゃなかった。師匠が出演されているご縁でフジテレビの『とくダネ!』という番組が僕の前座修業の様子を撮影に来られる段取りになっていた日なのだ。色々な方がこの日のために準備を進めてくださっていた中でのこの失態。僕が師匠でも確実に破門宣告するだろう。
御徒町駅のホームで師匠に電話をかけた。
「どうしたの?」
事情を話した。駅員の方に調べてもらったけど、カバンが見つからなかったことも。すると師匠は、
「そうか……」
と、ほんの数秒黙った後、
「とにかく着物は俺が別のヤツを持っていくから、吉笑は楽屋まわりの準備をして、その後は撮影クルーに協力してあげな」
とだけおっしゃられた。ひと言も怒られなかった。
後からわかったのは、師匠は自身の行動原理の一つとして、「自分に対して不利益なことが起こっている際に、どれだけ冷静にいられるか」に重きを置かれているということ。誰しもがイラッとしてしまうようなできごとに見舞われたときにも、師匠は顔色一つ変えず(むしろ朗らかに)それを受け流される。懐がとんでもなく深いのだ。
師匠に指示された通り、僕は急いで会場へ向かい楽屋仕事をした。
途中で別の着物を持った師匠が楽屋入りされた際も怒るどころか「災難だったね」と声をかけてくださり、その後はいつも通りの師匠だった。
無事に会が終わって、帰り道。師匠の優しさに感激し、また自分のふがいなさにイラ立ち、終電までひたすらカバンがないか山手線を見続けようと日暮里駅のホームへ向かったら、数本目の山手線に師匠のカバンが載せられていた。確認するとカバンの中には師匠の着物が何一つ欠けることなく入っていた。どうやら、乗っていた場所として駅員さんに伝えた位置が、全然違ったみたいだ。この馬鹿野郎め。自分で自分を強めに殴った。
すぐに師匠に報告をして、二度とこのようなことがないように気をつけようと肝に銘じた。
◇ ◇ ◇
数日後、オンエアされた『とくダネ!』を見た。「落語家になろうと前座修業に励む希望に満ちた青年」と紹介されているのに、そこには大しくじりをした直後で悲壮感漂う目がうつろな自分が映っていて、ちょっと笑った。
(次回、6月15日は立川談笑師匠の登場予定です)
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