知らずに追った父の背中 コラムニスト 泉麻人さん
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はコラムニストの泉麻人さんだ。
――お父さんは、泉さんも通われた慶応義塾高校の数学教師だったそうですね。
「幾何学が得意な学者肌の父でした。食事後に部屋にこもり、難しい問題を自分で作って、それを解くのを趣味にしているようなところがありました。ゴルフにも熱中していましたね。応接間には優勝カップがこれみよがしに並んでいました。ハンディキャップは1。相当な腕でした」
「あまり遊んでもらえませんでしたが、小学校4、5年生のころ、弟と東京の秋川渓谷に連れて行ってもらった時のことはよく覚えています。私は昆虫採集が大好きでした。虫を捕まえる長い網を渓谷に落としてしまったのです。父は急流に飛び込み、網を取ってくれました。『父親を見た』と思いました」
――学校でお父さんと一緒というのは、やりにくい面もありましたか。
「高校の時、仲間とマージャン店で補導されかかった時は参りました。トイレから戻ろうとドアを開けたら、見回りの先生が仲間を捕まえているではありませんか。慌ててドアを閉め、立てこもりです。結局学校にばれ、父がどう出るかと思いましたが、『ばか者』と二言、三言怒鳴られておしまいでした。互いに言葉のキャッチボールは苦手でしたから」
「しかし父が私を見ていなかったわけではありません。私はその頃、仲間と文集を出していました。アホな内容でしたが、父は私が文章を書くことに興味があることに気付いていました。後に、父の同僚だった人から『息子は国語が得意なのでよろしく』と言われたと聞きました」
――コラムニストになられた後の関係はいかがですか。
「コラムニスト専業になった時も、相談はしていません。その頃退職した父は、雑誌に載った私のコラムを読んで『くだらないもの書いてるな』と、ぼそっと言う程度でした。そして1991年春、67歳でがんで亡くなりました」
「ところが父の死後、私は父の別の側面を知ったのです。家ではそっけない感じだったのですが、外では教え子の面倒見が良かったようで、葬儀は盛大でした。驚いたことに遺品から昭和30年代の変わりゆく東京・池袋駅前や、自宅近くを走るバスや町並みを撮影した写真が何枚も出てきました。記録写真として明らかにタイミングを計ったと分かる構図でした。私は社会風俗について多く書いてきましたが、父が同じことに関心があったことを初めて知り、血のつながりを感じました」
「最近の私は、講演やテレビ番組など人前で話をすることがあります。そんな時は、教壇に生涯立ち続けた父と、似た立場にいる自分を感じます。一族の歴史など、父からもっといろいろな話を聞いていれば、と思うことがあります」