専業主婦から看護の道を経て、国会議員へ
お菓子を作って待っている専業ママになりたかった
―― 初対面のときに「私は息子が中学生になるまで、専業主婦をしていたんですよ」と話されていたことが、とても印象的でした。そのころ、私の周囲は働く母親ばかりだったので。
そうですよね。私は大学を卒業してすぐに企業に勤めたという経験がないんです。大学卒業後は、当時は都議会議員だった父の事務所を手伝いながら、学生時代から付き合っていた人とすぐに結婚しました。息子は、25歳のときに出産しました。
鍵っ子だった私は、専業主婦のお母さんというものに憧れていたのでしょう。母は主婦というより政治家の父の秘書的存在で、常に二人三脚で、区議会、都議会、衆議院と階段を上りました。それはそれで良い話なのですが、私は自分の子どもが学校から帰ってきたら「おかえり」と言って、手作りのお菓子を出してあげる――、そんな専業主婦のお母さんになりたかったのです。今の私から見たら、本当に世間知らず。ここに連れてきて説教してやりたいのですが(笑)。
―― ご自身で新たな道に進もうと決意したのは、息子さんが何歳になったときですか。
息子が小学3年生のころ、父が都議会議員から衆議院議員になりました。そのとき、私も秘書の一人として議員会館の事務所で働くことになったのです。ちょうど介護保険制度の始まるころで、自民党の部会でも介護保険の勉強会がありました。とても興味があって何度も通ううちに「これからは看護の時代だ」とひらめいたんです。そして「育児が落ち着いたら看護師に」という目標もでき、その後は、派遣社員として民間企業で働きながら少しずつ学費をためました。
当時私は38歳。息子が中学に入って、そろそろ子離れしないといけない時期でもありました。そもそも18歳で大学に行って、22歳で卒業しましたが、その後ずっと新しい知識をインプットすることがあまりなく、なんだか自分の頭の中が枯渇してしまっているような気もしていたんです。長い人生、また学び直すのもいいんじゃないかと。
―― 30代後半から大学編入試験、しかも全く違う専門分野のことを学ぶのはかなり大変だと思うのですが、慶應大学の看護医療学部を選んだのには何か理由があったのでしょうか。
慶應は9月に2年次の編入試験があって、入学試験の科目は英語と小論文だけでした。一般の入学試験は2月だったので、その前にまずは慶應に挑戦してみようと思ったのが理由です。
飛び込んだ看護の世界 病棟勤務を経て、看護協会へ
―― 看護師さんは体力的にも精神的にも大変な職業だと思います。40歳を過ぎて一からやるのは大変ですよね。
臨床がやりたくて看護師になったわけですが、夜勤もあるし、やはり大変さはあったと思います。一方で、年齢を重ねているからこそ、患者さんからの相談を受けることもたくさんありました。婦人科にいたのですが、末期がんの患者さんが「残された子どもはどうなるのか」と涙ぐんでいたり、子宮を失う方が「今後の夫婦関係はどう変わってしまうのか」心配していたり。
結婚や育児をしている分、相手が言わんとしていることが分かるじゃないですか。抜本的な解決法がなくても、話を聞いて寄り添うということは看護の基本中の基本で、そういう相談に乗ることができたのは、良かったと思っています。
―― その後、日本看護協会に勤務されますが、どんなきっかけだったのでしょうか。
慶應時代の恩師が看護協会の会長に就任されて、私に声を掛けてくださったのがきっかけでした。学生のころから、「卒業したら看護協会にいらっしゃい」と誘われていたのですが、やはりまずは臨床をやりたくて、最初は病棟勤務の看護師として働きました。本当はもう少し臨床をやりたかったのですが、体力的なこともあって。
それに、臨床時代に感じていたんです。看護師の方は何かあっても、「自分が我慢すればいい」「自分の確認不足だった」と大きな声を上げないんですよね。もっと専門性を認められてもいいのではという気持ちもあって、より自分らしさを発揮できるのは、看護協会ではないかと思いました。
―― その看護協会で全国各地の現場で勤務する看護師とつながります。そこで様々な事象を見てきたこと、経験してきたことが今につながっているのでしょうか。
本当にそうですね。看護協会のときには広報部だったので、全国各地を回って取材しました。どんな地方の片隅の小さな病院でも、すごく志の高い看護師がいて、それを見守っている看護管理者がいる。その人達の活躍を、看護協会のときには会員読者に伝える、今であれば議員の人達や社会に伝えることが自分の仕事だと思っています。
―― 看護師として、病院や日本看護協会で働きだしたタイミングは、子育てが一段落してからという時期で良かったと思われますか。
私の場合、たまたま早く出産したからこそできたことで、恵まれていたし、周囲に助けてもらったからこそではあるのですが、タイミングは良かったのかもしれません。
私がこの世界に入ってからの1つのミッションとしては、「こういう事例もあるんだよ」ということを色々な場所で伝えるということがあります。女性の活躍について話し合う場でも、議員や霞ヶ関の方々にもお示ししたいと思っています。
企業や社会にお母さん達のスキルを評価してほしい
―― 今、働きたいと思いながらも、出産を機に退社して専業主婦になっているお母さん達も少なくないと思います。かつて38歳で看護の道を目指した弥生さんから、そんなお母さん達に伝えたいことはありますか。
まず、「もうどうせ……」という言葉で、諦めないでほしい。意思あるところに必ず道はあって、頑張ろうとしていたら絶対に誰かが声を掛けてくれます。
ただ、お母さん達の意思ももちろん大切ですが、その一方で、企業や社会自体が、お母さん達が持っているスキル、育児をした経験や、周囲と適切な人間関係を築くという人間的なスキルを評価すること。再就職を応援すること。そんな社会にしていかないといけないし、お母さん達のスキルを認める企業が伸びていくのだと思います。
―― 今もこれからも日本は大変な高齢社会で、女性の力が必要になってくると思うのですが、やはり育児を終えた母親達の力も必要だと思われますか。
まさに、労働生産人口が減っていく中で、女性と高齢者というのは最大の潜在力です。日本には、大卒の女性がたくさんいるのに、どこかでキャリアを分断されて働いていないのですから。
これからは"人生90年時代"ですが、健康寿命と平均寿命の間に10年くらいの差があります。仕事という生きがいがあるということは、その人の健康にとっても大切だし、経済的に自立するのも重要なことだと思っています。今、高齢者の生活保護が増えていて、高齢女性の一人暮らしの半分以上が生活保護を受給しているという状況です。やはり女性は低賃金のままで、キャリアが分断されてしまい、高齢になってからの再就職もなかなか難しい。私はそんな社会を変えたいのです。元気な女性の高齢者が増えることが、膨張する日本の社会保障費を抑制することにもつながると思うのです。
―― 国会議員は、ずっと働き続けていた男性が多いですよね。委員会などの場で発言するときなどは、専業主婦も兼業主婦も経験しているということを意識して話されているのでしょうか。
意識しています。例えば、労働者派遣法の改正について話し合っているときにも、野党の皆さんが口にするのは「派遣は良くない。派遣はかわいそう」というレッテル貼りばかりなのです。私は、派遣社員として働いたことのある数少ない国会議員の一人ですから、「派遣という働き方が良くないとは、一概には言えない」と自分の経験をお話ししました。
子育てに比重を置きながら働きたい場合、残業がなく、決まった時間に帰ることができる派遣という働き方は私には合っていた。そこで、看護大学に進学する学費をためて、夢をかなえることができた。そういう一つの見方を示すことも大切だと思ったので、そのような発言をしました。
永田町も霞ヶ関も、やはり男性が多い中で、母親の視点というものが置き去りにされていると感じることもあるんです。これからも、自分の立場を忘れずに、衆議院議員としての仕事を全うしていきたいと思います。
TVディレクター。都立国分寺高校、早稲田大学卒業後、民放テレビ局入社。報道情報番組やドキュメンタリー番組でディレクターを務める。2008年に女児出産後、視点が180度変わり、児童虐待・保育問題・周産期医療・不妊医療などを母親の視点で取材。夫の転勤に伴い、2013年退社。海外と東京を往復しながらフリーで仕事を続ける。2008年から、働くママの異業種交流会「Workingmama party」 を主催。今年、働くママ&20代30代女子が集まる異業種交流会「Women's Lounge」 も立ち上げた。
Workingmama party https://www.facebook.com/WorkingmamaParty
Women's Lounge http://www.ws-lounge.com/
[日経DUAL 2016年3月24日付記事を再構成]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
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